『悪意の手記』が語る「生きるという事」

人生で目的を持つことが大切だ。

みんな自分の目標に向かって生きようと、世の中は叫んでいる。

ザッカーバーグの母校ハーバードでのスピーチだって、より良い人生を歩むためには、目的が必要だけれど、ミレニアル世代以降の僕たちにとってそんなことは当たり前だといっていた。僕たちは自然に目的を持つことを行なっていると。

もっと大きな目的を持とう。それはすべての人が人生の意義を感じられるような目的感を持てる世界を作ろうと。目的を持つことは「当たり前」なんだと、つながりの世界の神様は言っている。

誰もが自分の目的を持って人生を充実させる世界。たぶん、多くの人々にとっては、「正しい」のだろうと思うけれど、それって息が詰まりませんか?というのが僕の感想だった。

その未来への希望という言葉が最もふさわしい、とても正論でとても眩しいものだけれど、僕には眩しすぎて、たまに目を背けたくなってしまうほどだった。

そんな正しい生き方から目を背けたくなった時、僕は中村文則さんの『悪意の手記』をよく読んでいる。


「十五の時、ひどい病気をした。TRPという不吉な響きの聞き慣れない病だった。もちろん自分の行なった殺人を、この病気のせいだというつもりはない。ただ、手記を書くにあたって、このことから書き始めた方がいいと思ったまでだ。」中村文則(2005)悪意の手記


この作品は、ある青年の独白から始まる。物語はいたってシンプルで、ある少年が青年になるまでを描いた作品なのだけれど、始まりの文章からもわかるように、当然底抜けに明るい作品ではない。

中村文則さんの作品は基本的にどれもこれも陰鬱な雰囲気を纏っていて、ひたすら雨の繁華街の裏路地を歩くようなものばかりだけれど、この作品だけは、明確に「正しさ」を描いた作品だと思う。

でもその正しさはザッカーバーグのい「希望」を「目的」を伴った正しさでは決してない。泥の中でのたうちまわって、目を背けて、ひたすら逃げ続けた果てに、最後の瞬間だけ、自分の人生に向かい合う、そんな物語だ。

散々逃げ回って間違いも当然犯して、自分もこれでもかというくらい捻じ曲がった主人公が最後の最後に、自分の行なってきたこと、「自分の人生」そのものに向かい合う「正しさ」を描いた作品だ。


「十五の時、ひどい病気をした。TRPという不吉な響きの聞き慣れない病だった。」


主人公は大きな病を患ってしまい、それが原因で世界を恨むようになる。そして奇跡的に病がなおり、身体的には生きていけるようになったが、精神の方は、不可逆的な崩壊をして、ついには友人を殺してしまう。

始まりと、そしてこれが主人公の人生を縛るすべてなのだけれど、重要なのは、人生の目的を求めないという点だ。主人公は死を明らかに間違った方法で問答無用に受け入れようとして、目的を持つということを、放棄する。そもそも目標を持つということの大前提としての「生」を放棄するのだから、当然、その土台の上に成り立つはずの「人生の目標」何てものは胡散霧消してしまうのだけれど。

そういうわけで、主人公は物語の終わりまで人生の目的というやつを持たない。途中で大学の悪友の詐欺の手伝いもしたりするけれど、決してそれは自分からでなく、本当に何もかもがどうでもいいから、自分の人生から逃げてるからだった。

でも最後の最後に、主人公は、自分の人生に向き合うことになる。そしてそれは「贖罪」という目的をもつこと「ではない」。彼は、ただ生きなければならないと悟っただけだった。

そう本当に物語の終わりまで、主人公は人生の目的というやつを持たないのだ。「生きなければいけないから生きる」そんなトートロジーをもって主人公は物語を閉じるのだ。


「Kを殺した自分を、最後まで抱えていくということ。今の私にできることは、しかし、それだけしかない。」


最初に述べた通り、今世界では目的が求められる。より良い人生のためには、目的を持つことが大切だと、それが当たり前だと、誰もが言っているし、思っている。

でも、そんな光だらけの海の中で息が詰まった時は、『僕は悪意の手記』を読むことにしている。ただ生きること、その当たり前だけれどその「正しさ」を感じさせてくれる。自分の意識をニュートラルな地点に戻してくれるのだ。

自分の人生のアルゴリズムと、心に乖離を感じたなら、きっとあなたの心を調律してくれるだろう。







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