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タラレバ娘はどうすれば幸せになれるのか

「バンドマンの彼が、あの時もう少し売れていたら」、「映画好きな彼がめんどくさくなければ」、と仮定と後悔を積み重ね、グラスに入ったお酒を飲み干す。

頬杖をついてサーモンに手を伸ばし、不幸自慢をしては自虐ネタに走る。そして、「あ〜、いい出会いがないかな〜」、「胸を焦がすような恋愛がいしたい〜」と左手に持ったグラスをテーブルに戻す。

女友達と気ままに集まっていたら33歳になっていた。それが「東京タラレバ娘」だ。

タラレバ娘になりたかった

仕事に奔走し、不器用な恋愛に走る彼女たちは、あまりにリアル…ではなく、少し憧れの存在だった。

私の母は専業主婦だったし、同級生も似たような家族構成が主だった。今でこそ、仕事と家庭を両立させる女性が増えてきたけれど、私の身近な女性は「仕事を辞め、家に入る」道を選んでいた。

多分私だけではない。男女雇用機会均等法は1985年に制定、翌年施行された。そのため、アラサーの親世代は専業主婦が多い。今とは全然違うのだ。

都会で暮らし、クリエイティブな仕事につき、稼いだお金を自由に使う。30代になっても恋愛市場を楽しむ「タラレバ娘」は、母親よりもずっとリアルな将来像だった。

10代の頃、「SEX AND THE CITY」に夢中だった私にとって。

いざ、アラサーになって覚えた違和感

いわゆるマンガやドラマは、なんだかんだ主人公が素敵な男性と結ばれ、それまでの失敗が肯定される形で丸く収まる。うまくことが運びすぎて、自分を投影できるリアルさがなかった。

何度も失敗を繰り返し、迷い、あてもなく彷徨う「タラレバ娘」たちを見ると、壁に当たってもいいのかなと、自己嫌悪から救われるような気持ちにもなる。

でも、あるとき違和感を覚えるようになった。このままで、倫子たちは幸せになれるのだろうか? いや、なれない。なって欲しくない。

年齢の呪縛をめぐって

この作品では、しばし年齢について辛辣な言葉が刃を向く。

「毎日毎時間 1分1秒 あなた達は歳を取っていくんタラ」

「酔って転んで男に抱えて貰うのは25歳までだろ。30代は自分で立ち上がれ。もう女の子じゃないんだよ? おたくら」

「ハタチの頃は私達が考えてることが一番新しかった でも私達ってもう新しくもなんとも無いんだな」

セリフだけでなく、主人公の倫子は、後輩に男性や仕事をサラリと取られてしまう。まるで若さこそが女としての価値だと言わんばかりに。

これと対照的なのが、昨年ヒットした「逃げ恥」の名言だ。バリキャリ、アラフィフの「ゆりちゃん」が、恋敵となる20代女子に語りかける。

その後、「ゆりちゃん」は結ばれる。女性における年齢の呪縛を解く展開に感動した人も多いはずだ。

歳をとる重荷から解放された矢先に始まった「タラレバ娘」のドラマは、再び呪いをかけてくるように見える。

実は、さほど生き遅れていないタラレバ娘たち

原作の倫子は33歳、ドラマ版では30歳の設定だ。

焦燥感に駆られるシーンが多く見られるものの、厚生労働省によると、女性の初婚平均年齢は29.4歳だ。年々わずかながら上がっており、最も結婚が遅い場所が東京である(30.5歳)。

ロングバケーションでは、30歳の主人公が完全に生き遅れた存在として描かれていたけれど、当時と現代のアラサーは全く別の存在だ。2020年には、初婚年齢はもう少し上がっているだろう。

結婚するまでに交際期間があるとしても、彼女たちは咎められるほどの年齢でもないのだ。

では、「タラレバ娘」たちは、どうしてサンドバッグのように殴られなくてはいけないのだろうか?

タラレバ娘たちに決定的に欠けているもの


「一体何の為に歳 取ってるんだ。あんたらは」

タラレバ娘たちの前に立ちはだかるイケメンモデルのkeyのセリフだ。彼は彼女たちをおばさんと呼んだり、いちいち年齢の呪縛をかける言葉を投げてくるが、全否定しているわけではないように見える。

年齢を重ねた意味を問う。要するに年齢そのものを否定しているのではなく、「成熟していない」メンタリティを攻撃しているのだ。

「私は大丈夫。私は大人なの」と自分に言い聞かせたり、「オトナになりそこねた私達」と自らの未成熟さを認める部分もある。けれども、彼女たちは自分たちの失敗に対して反省もしないし、成熟しようという意思を一貫して持たない。

成熟とはなんなのか?

「世の中の女は2種類に分けられる。妥協できる女と妥協できない女。どうやら、私はできないほうの女らしい」

倫子は言う。幸せになるためには妥協が必要であり、私はそんなことできないと匙を投げる。このセリフには、「自分の意思を曲げて面白みがない存在」「一線退いた人」への侮蔑と憧憬の眼差しを感じる。

不倫相手の妻が、タラレバ娘たちよりも地味な風貌をしているのが、いい例だ。

哲学者の内田樹は成熟の指標のひとつを「他者と共生・協働する能力」と説明している。

若い人に 「折り合いをつけることの大切さ 」を説いていたら 、「それは妥協ということでしょう 」と言われた 。妥協したくないんだそうです 。 「妥協」と 「和解」は違うよと言ったんですけれど 、意味がわからないらしい 。 「交渉する」ということがいけないことだと思っている人がたくさんいますね 。

(中略)和解することと屈服することは違うのに 。
−−内田樹、鷲田清一「大人のいない国」

タラレバ娘たちは、「折り合いをつける」ことや「交渉」をしない。倫子は趣味の合わない男を拒否するし、浮気・不倫相手に甘んじる香と小雪は刹那に流され、内なる想いを胸にしまう。「察して欲しい」と。それでは共生なんて、できるわけがない。

ワガママと意見は違う。媚びと対話は違う。妥協と折り合いは違う。駆け引きと交渉は違う。

恋愛は幸せの必要条件なのか?

ここで大事なのは、女だから折り合いをつける必要があるのではないことだ。性別に関係なく、人として成熟するためのメソッドに近い。

配偶者が示す自分には理解できないさまざまな言動の背後に 、 「主観的に合理的で首尾一貫した秩序 」があることを予測し 、それを推論するためには 、想像力を駆使し 、自分のそれとは違う論理の回路をトレ ースする能力を結婚は要求します 。 −−内田樹「呪いの時代」

結婚(恋愛含む)は、相手の中にある「自分とは異なるロジック」を、知恵をふりしぼって理解し、予測を立て、折衝していく営みだという。

そしてこれは、恋愛以外の場に応用できるスキルでもある。

一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的な 「パタ ーン 」の発見こそ 、知性のもっとも始原的な形式だからです 。 −−内田樹「呪いの時代」

他者と共生する中で得る知見は、森羅万象への理解を深め、解釈を変え、打つ手を変えせしめるのかもしれない。それが成熟のひとつの有り様だろう。

結婚や恋愛が成就すれば、必ず幸せになれるわけではないが、そこで得るスキルは人生を豊かにする。そういう話だ。

タラレバ娘が抱える病

「オリンピックの頃にはこの街はどうなっているんだろう。私はどうなっているんだろう。東京に吸収された透明で空っぽなおばさんになって。誰からも気づかれない透明人間として東京で暮らすんだろう」

タラレバ娘は、2020年を40歳の独り身で迎えてしまうのではないか?という焦燥からはじまる。

孤独への恐怖にも見えるけれど、上のセリフには「何者でもない自分」に対するそこはかとない不安が宿る。

居場所がない、自己肯定感が低い…「うまくいかない自分の欠乏感を満たしてくれるのが結婚」だという図式ができている。

「どこかに自分にぴったりと合うたったひとりの男性がいて、運命的に出会い、私を救ってくれる」

家庭という居場所さえ作れればなんとかなるだろう。年齢の呪いから救われるだろう。そんな幻想を胸に、今日も幸せを求めて右往左往する。

だが、幸せとは誰かに「してもらう」ものではなく、共に「なっていく」ものだ。

タラレバ娘はどうすれば幸せになれるのか

誰かを認め、歩み寄ることを拒否するタラレバ娘はエヴァンゲリオンのシンジ君のようだ。シンジ君は14歳だけれど、倫子は33歳。

「一体何の為に歳 取ってるんだ」という問いはここに帰結する。

成熟はなぜ必要かと言うと、単純に生きやすくなるからだ。未成熟なままだと「本当の私はどこかにある」幻想に囚われてしまう。この思考は耽美的ではあるものの、自分への呪詛でもある。「自分の否定」をアイデンティティの主軸に置くことだからだ。生きづらさしかない。

タラレバ娘たちは30歳を過ぎても思春期のままだから殴られるのだろう。

先述のように、成熟とは他人とうまくやっていくスキルがつくことだ。自然と周りを考えることが増え、自我のプライオリティが下がっていく。「どうでもよくなる」とでも言おうか。

成熟と言われても、その抽象さに途方にくれる。でも、まずは相手と対話することからはじめればいいのではないだろうか。

相手をひとりの人間として対等に見て、信じて、素直な意見を言う。余計なことを考えず、「会えたら嬉しいな」と言えばいい。意地を張らずに「ごめんなさい」と謝ればいい。そこから少しずつ呪いは解けていくはずだ。

待っていても王子様はやって来ないし、空から美少女も降ってこない。ベケッドの不条理劇「ゴドーを待ちながら」のようだ。待っているだけでは無しか起きない。



偉そうなことを書いてしまったと反省している。それは私が作品を通して、自らの未成熟さを感じたからに他ならない。

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