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SNSが若者の恋愛にもたらした壁

これまで何人のアーティストが「あなたを知りたい」と歌ってきたのだろう? 恋をした相手のことを知りたくなるのはいつの時代も共通だ。

今は検索窓に名前を入力するだけで、意中の彼(もしくは彼女)に関するいろんなことがすぐにわかるだろう。仲良くしてる友人、お気に入りのカフェや昨晩何を食べたのかも。

かつてインターネットはセカンドライフだった

日本でSNSが本格的に普及してから10年の歳月が経つ。その登場まではネットとリアルは別ものとする風潮が強かったが、SNSはこの分断を曖昧にしていった。むしろ、リアルな生活を「より深く」「より濃く」したようにすら見える。なぜならSNSとはその名の通り、社会を可視化させるツールとして機能するからだ

実際アメリカでもその状況は同じようで、ハーバード大学フェローであるダナ・ボイド氏の「つながりっぱなしの日常を生きる」には、こう書いてある。

ティーンの多くは、物理的な場で知っている友達と社交するためにオンラインを利用し、直接的な社会的コミュニティと以前より緊密に結びついたオンラインの文脈上で自分を表現する。こうしたオンラインの世界とオフラインの世界をどんどん地続きにしていくようなティーンの行動は、私の成長期には現在に較べてあまり見られなかったものだ。

ボイド氏は90年代後半にインターネットに夢中になったデジタル第一世代だ。当時は、地元をはじめとする社会コミュニティーからの逃避場所としてネットは機能したという。これは日本も同じだろう。ネットはセカンドライフだったのだ。しかし、SNSの登場によって、それは急速にリアルライフを支えるようになった。

SNSが可視化したもの=個人とコミュニケーションのブラックボックス

人は対面する各場面に応じたコミュニケーションをとることで環境に適応する。これは社会脳と呼ばれる脳の機能によるもので、動物界において強靭とは言えない人間たちが、今日まで生きながらえている所以とも言われている。

脳科学者の藤井直敬氏は「拡張する脳」にて社会脳をこう定義している。

社会脳とは、瞬間的に変化する社会的ルールに対応して、適切に行動を切り替える脳の働きである。

人間は、相互に協力する社会を構築することで子孫繁栄を築いてきた。誰もが社会脳を働かせ、そのときどきの社会的文脈における最適解(キャラクター)を切り替えながら生活している。ただ、私たちの「個人」に関わる認識は、「本当の自分」はたった1つであり、それ以外のキャラクターを建前(=偽物)だとする傾向が強かった。

このギャップは、しばし若者たちを苦しめてきた。学校や自宅など各々の場面で異なるキャラクターを持つことに対して「与えられた役割を演じている」と虚無感を覚えたことは、誰にでもあるだろう。

しかし、実際のところ個人とは、社会に適応するために生み出すさまざまなキャラクターの集積であって1つではない。極めて曖昧だった個人の内面を相対的に可視化したのがSNSだ。

Facebookを見ると、私が目上の人に敬語を使って話している姿や、小学生の時の同級生、大学時代の友人...それぞれ異なるモードで接していることがわかる。各々における差異は、建前ではなくすべて社会脳を働かせた結果にすぎない。

今までブラックボックスだったものをデータ化し、そのビッグデータに基づいて最適解がレコメンドされる。これが昨今のネットの流れである。今までそれはネットショッピングなどが主戦場だったが、SNSによって社会脳の折り重なり合いにまでがこの俎上に乗った。だからこそ、私たちのコミュニケーションの生態系を変えつつあるのだろう。

一方でSNS は、内面のビッグデータ化を応用して、生活に彩りを与えてくれる。

例えば、出身地や職業など所与の関係以外の新しい出会いをもたらしてくれるだろう。またある時は「共通の友人」を提示して、「友だちの友だちはみんな友だち」と言わんがごとく、親交の輪を狭く濃密なものに仕立てる。

これらは、あなたの所属団体や出身地、過去に参加したイベントなどのログを元に提示されることが多い。

私たちがこれから仲良くなるであろう友だち、観るであろう映画、気にいるであろう場所。すべてはテータに基づきレコメンドされる。そしてこれらの提示されるデータは「自分とは何なのか」というアイデンティティを担保するようになるだろう。

当たり前だが、これらデータ化の流れはアクティヴに使うほど広がりを見せる。私たちは、個人情報を多く開示すればするほど、より自分に合ったサービスを受けることができるのだ。SNSの場合は、たくさん投稿するほどにあなたの為人が他者に伝わる。映画について語れば、映画が好きな人と繋がれる可能性が増える。だから私たちはつぶやいてしまうし、いいね!を押してしまう。

このことは誰もが知っている。だからこそ、もしあなたが恋に落ちたのならば、意中の相手の名前を検索窓に入れ、エンターキーを押す。このとき私たちは、欲しい情報を知り満足もするが、ある課題を抱えることになる。

それは嫉妬である。

拡張する嫉妬

ほとんどの嫉妬は、「現在」において、私と相手の関係性を阻害する存在へと向く感情だといえる。仮に、私がA君に恋をしているとしよう。すると私はA君と一緒に時間を過ごしたいと思う。でも、私よりもA君と長い時間を過ごすBさんや、親密にコミュニケーションをとるCさんがいると、おそらくこの2者に対して嫉妬心を抱くことになる。

この対象は、人間にとどまらず、すべてのものを含む。「私と仕事どっちが大事なの?」と質問をする女性は、大抵の場合「彼との時間を奪う仕事」が憎いのだ。

しかし、SNS時代においてはそうはいかない。嫉妬は、「現在」だけでなく「過去」と「未来」にも範疇を広げてしまうのだ。


"消せない"あるいは"消しそびれた"「過去」の攻撃性

昔、恋愛関係にあったであろう人との写真はもちろん、各SNSでのコミュニケーションがログとして残っているのが「過去」だ。その人が誰と返信の応酬してきたのかをランキング形式で教えてくれるサービスだってある。単純接触効果とはよく言ったものだが、多くコネクトしてる人々は親密な関係を持っていることが多い。

「過去」の恋愛のログを見ると、「この人にはこういう顔を見せていたのか」と新鮮な気持ちと同時に、自分とのコミュニケーションを比較するだろう。たとえば、昔の写真や動画を見つけたらどうだろうか。かつての恋人との風景が、瞬間が、日常が、事実として提示されるのだ。

もう過去のこと。そんなことはわかっていても、気持ちが揺らいでしまうのが人間の不合理性である。私たちは、多くのことをログとして残しすぎている。それはあまりに日常的なことなので、いちいち振り返るまでもなく忘れ去ってしまうことも多いだろう。

同時に過去ログは友情の担保にだってなり得る。消すことで途絶えてしまう交友関係だってあるかもしれない。もしあなたがタグ付けされたある写真を消したら、ある人とのフレンドを解除したら…。そんなこと、検索すればすぐにわかる。そして共通の友人たちは思うだろう。「あれ、何かあったのかな?」と。

どの時代でもゴシップ産業が消えないのと同様に私たちは噂話が大好きだ。何か違和感があれば「友だち」の間で煙がたつだろう。一方で人間関係をリセットするがごとくSNSアカウントを消してしまう手段もある。しかし、リアルと密接につながりを持った、いわばアイデンティティの担保なりえる存在は、たかが1つの恋愛で消し去れるほど軽いものではない。

そんな懸念はログの消去を押しとどめる。そうして残った投稿は、時を経て、現在の相手に届く。それがどう伝わるかは、まさに神のみぞ知る領域と言ってもいい。

「未来」の恋人は、フレンドの中に

一方、「未来」の嫉妬とはどういうことだろうか。友人が自分の恋人に関してこう述べたことがあった。

私の彼が最近出会ったあの女の子は、このまま行くとどんどん親密になって、恋仲になるだろう。Facebookを見ているとわかる。彼女はいい子だ。きっと彼とも話が合う。

恋人がそれまで興味のなかった本を買うようになり、それを促したのはFacebookフレンドの「あの子」だった。彼が「あの子」の投稿文や写真にも複数コメントしているのを発見したのだそうだ。同じアーティストや作家が好きで、趣味も合うことがわかった。

投稿をさかのぼってみると、彼らが知り合ってから「いいね!」やコメントなどソーシャルアクションの頻度はどんどん高くなっていた。親交が深くなりつつあるのだ。

私たちは何かのきっかけで出会った人とフレンドやフォロワーになる。浮ついた気持ちではなく、単純にその人との関係を築きたいからこそ「繋がる」のだ。やましい気持ちがなければないほど、オープンな場所で交友を深めていくだろう。SNSはその過程まで可視化する。

もちろん、SNS上での親密なやりとりは必ずしも浮気や破局に結びつくものではない。しかし、可視化された社会では、不安を抱く対象は潜在的なものまでに発展する可能性があるのだ。

SNS時代に強くなる「(不完全な)エビデンス主義」

これらの嫉妬の拡張には、厳然たるデータ(証拠)を過度に信じてしまう心理状況があるのではないだろうか。相手の言葉よりも、履歴やコメントといった証拠に重きを置いてしまう。これを「(不完全な)エビデンス主義」と呼びたい。

SNSで提示されるエビデンスは点でしかない。たった1度、たった1つの発言で為人を判断できない。1つの投稿には、その前後に必ず文脈が存在するのだ。なぜこの時間に、なぜこの単語をセレクトしたのか。無意識かもしれないし、故意かもしれない。しかしSNSは、"そこまでは"可視化してくれない。

SNSでは、文脈が断絶された「点」としてのエビデンスだけが私たちの目の前には提示される。その点を結びつける行為は、点の数だけ正確性を持つだろうが、きっと「事実」とは異なるものだろう。でも、そんなことを冷静に見られるほど私たち人間は合理的にはできていない。目の前の相手がどんなに心からの言葉を投げかけても、(不完全な)エビデンスはまるで幽霊のごとく私たちの不安感をあおぐ。SNSが切り開いた世界はパノプティコン(全展望監視システム)だったというオチだ。

SNSの登場以前だって「元恋人」や「潜在的相手」に対し、人は苦しみ続けてきただろう。しかし、可視化はされていなかった。だからこそ、目の前の相手を信じる余地があったのだ。でも今は、エビデンスとして目の前に提示されてしまう。甘く楽しかった過去の恋愛も、これから始まるであろう刺激的な恋愛も。

誰だって傷つくのは怖い。相手を信じるよりも、(不完全な)エビデンスによる妄想を信じ、その傷に対して予防線を張りたくなってしまう。失恋は時として破滅をもたらす。シェイクスピアの時代からずっと変わらない。

人間はロボットではない。0と1ですべてを割り切るデジタル処理に対して、0.7や1.2の解答を導きたい生き物なのだ。しかし、SNSはリアルライフを加速度的にデジタル化していくだろう。「不完全なエビデンス」と不合理な感情の折り合いを付けられるくらいに、デジタルネイティブはクールになりきらなくてはいけないのだろうか。

人の本質は、インフラと同じスピードでは変わらない。比べものにならないくらい遅いのだ。そんな世界に生まれた壁を、崩すべきか、乗り越えるべきか、受け入れるべきか。その答えを検索エンジンは教えてくれない。

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