noteアイキャッチ

禅と枯山水のちょっとコムズカシイはなし。前編

14歳、龍安寺に一目惚れ

枯山水は岩と砂利と苔で作られた日本式庭園の1つです。
有名なのはやっぱり京都の龍安寺でしょうか。

画像1

龍安寺にて木村が撮影
朝8時くらいに行ったら独占状態。肌寒い風のなかに陽の光が射してほんのりとあたたかく。鳥のさえずりが心地よくこころを撫でてくれます。

この龍安寺は禅宗 臨済宗 妙心寺派のお寺です。
つまりは禅寺なんですね。

私が龍安寺に初めて行ったのは中学の修学旅行でした。
他にもいろいろと回ったはずだけど、いまも印象に残ってるのはこの龍安寺と銀閣寺。このころから渋いの好きだったんですね、14歳って思うとどうなんだって気もするけど。

さて、龍安寺に限らずいま京都にある枯山水を持ったお寺のほとんどは禅寺です。これを見ながらお坊さんが坐禅をしたりしているそうです。

そういうわけで、禅と枯山水は密接な関係にあるんですが、今回はこの枯山水について書いてきます。


日本最古の作庭技術書から見る日本庭園と枯山水

まずは枯山水の歴史を振り返るところからはじめます。
『枯山水』という言葉が初めて文章として使われたのは『作庭記』という本です。この作庭記は日本最古(それどころか世界最古)の作庭に関する秘伝書で、平安時代に書かれたとされます。現在の通説では関白藤原頼通の庶子、橘俊綱(1028〜1094)が、その作庭経験に基づいて書いたのだろうとされてます。

ただここで書かれたときは現在みたいな主役を張る技術ではなく、むしろ作庭技術のごくごく一部として扱われてます。
なので枯山水を見ていく前に、そもそも日本庭園とはどういうものなのかについて簡単にまとめることにします。

画像2

もともと枯山水は作庭技術のなかのごくごく1部だったんですね。


日本庭園は『自然の景色を要約し、居ながらにして深山幽谷を経験させる働きを持っている』と言われます。源氏物語にも寝殿造の邸宅の庭園が、自然界の小宇宙をどれだけみごとに表現していたかについて書かれているそうです。
庭に深山幽山を表現するってのもすごいですが、小宇宙を表現するってのはちょっとかなりスケールがでかいですよね。当時の姿を見てみたい。

そもそも庭園が造られたのは『人間の生活と自然の結びつきを表現するため』だそうです。
いまの感覚で言えば、『毎日人工物にばかり囲まれている生活は息がつまるから、家に植物でも植えるか』みたいな感覚でしょうか。都市に住んでる人が休みの日に、遠出して自然の豊かなところに行くのとも近い感覚かもしれません。

平安時代の貴族たちはお金も土地もあるから、『人工物ばっかりで窮屈だから、家の中に小宇宙でも作るか〜!』って思ったんでしょうかね。今ほど旅行、というか移動が簡単な時代じゃなかったからそういう発想になったのかもしれません。

画像3


(ただまあ「世界の豪邸」とかでググれば、世界中の富豪たちは自然に囲まれた家を建てるようので、古今東西に関わらず人間は裕福になるとそういうものを作りたくなるものなのだと思います。)


話を戻しましょう。こうして造られる日本庭園にも2種類があります。室内や廊下から眺めるための庭と、庭の中を人が歩きながら楽しむための庭です。
自然に対してそれを眺める地点にとどまるか、自然の中へと歩み入りその内部で楽しむかという、2つの鑑賞者態度の違いがこの差へと繋がります。

とはいえ後者の考え方が一般的です。前者の態度は今回テーマにしている枯山水がまさにそうですが、いまの日本庭園を想像しても枯山水は少数派の庭ですよね。


そんなわけで日本庭園は2種類に分かれますが、そのどちらもが『自然の景色を要約し、居ながらにして深山幽谷を経験させる働きを持っている』ということは共通します。そしてどちらだとしても庭園の主役は『山』と『水』です。つまり山水です。自然を要約して表現するという目的を目指すとき、自然を表現するものとして『山』や『水』を主役の表現手段として使うのは納得です。

そして『枯』山水とは、庭園の主役である『水が枯れている』ということ
ここまで前置きが長くなりましたが、作庭記の中で枯山水はこんな風に定義されています。

池もなく遣水(やりみず)もなき所に石をたつることあり、これを枯山水となつく、枯山水の様は片山のきし或は野筋なとを作りいててそれにつきて石をたつるなり

枯山水は庭園の中で池や水の流れのない、築山(人工的に造った小山)や野筋(庭園でゆるやかな起伏の部分)のような一部分に石を立てた区域をそう呼んだそうです。現在に残っている寝殿造庭園は皆無に等しいので、作庭記で書かれているような枯山水がどんなものか、実物を見ることはできません。当時の絵巻物などから想像するしかないのが実際のところです。

画像4

小石川、後楽園にある築山
作庭記にある枯山水の定義に近いと思われる(木村 考)


作庭記にはさらに

但庭のおもには石をたてせんさいをうへむこと
階下の座なとしかむことよういあるへきとか

とあって、庭の正面に石を立てたり、前栽を植え込んではいけないと注意書きがしてあります。つまり平安時代に書かれた『作庭記』が定義する枯山水と、いまわたしたちがイメージする龍安寺などの桃山、江戸期に造られた枯山水はまったく違う庭だということです。


さて、長くなってきたのでここまでをちょっとまとめます。

・日本庭園は限られた空間の中に自然の小宇宙を要約して造られた
・この作庭技術について書かれた最古の本が『作庭記』という平安時代の本
・『枯山水』という言葉が初めて文章で使われたのもこの本
・作庭記の中で書かれている枯山水と現在の枯山水はまったく別のもの


枯山水は禅だけのものじゃない?

いまみたいな禅宗との関わりが深い枯山水は建長五年(1253年)、鎌倉建長寺の創建に始まると言われます。それもこのときは庭園では庭の一部が枯山水で作られていたというだけで、全庭が枯山水になったのは室町時代に入ってからです。

もっといえば、禅寺の庭も枯山水だけがあるわけじゃないです。たとえば築山泉水庭、茶庭、草庭、池庭など、いろいろな作庭様式が備わっています。
それにさっき作庭記で見た通りの定義でみれば、禅寺以外にも優れた枯山水の庭園があります。なので枯山水と禅宗は密接な関係にありつつも、禅宗思想によって枯山水が発達したとは言い切れないところがあります。

話は少しそれますが、たとえば枯山水の主役の1つである『砂利』にしても、平安時代よりはるか昔から、神様のいる区域、つまり神社のまわりにも敷かれてます。石と砂と人のつながりは、はるか古くから始まっていたといえます。
禅寺が枯山水を0から作りだしたわけではないんですね。

画像5

写真は伊勢神宮のFacebookより
ちっちゃいころに神社の砂利を蹴りながら歩いて靴を真っ白にした思い出


枯山水の形が初期から変わったのは、そもそもの『庭園』の意味が変わったことにあります。ありますが、今回は趣旨から離れるので省略します。

さて、枯山水の中にも山の斜面に造られる前期式(作庭記で書かれたようなもの)と、寺院の平庭に造られる後期式(禅宗芸術的枯山水)の二種類があることがわかりました。

画像6

ではいったい誰が枯山水に禅宗の精神を込めたのか。ここでひとりの禅僧が重要な役割として登場します。

今回は長くなってしまったので次回で完結させようと思います✌️


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集