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禅と枯山水のちょっとコムズカシイはなし。完結編

さて前回のつづきです。この前は日本庭園とはどんなものか、枯山水は初期と現在のもので全然違うものだったというところまで見てきました。

今回は枯山水と禅を結びつけた人物は誰なのかについてから始めます。


気さくで愉快な人だった?夢窓国師によって枯山水は禅と密接する

禅宗寺院に特有の『作庭思想』を生み出した人物は夢窓疎石(国師)という人です。この夢窓国師は非常に興味深い人物ですが、彼について書き始めたらまた長くなってしまいます。ここではプロフィールだけ紹介して、今回は彼が枯山水について述べたことに焦点を当てていきます。

夢窓国師(妙智院蔵)
夢窓疎石 むそうそせき (1275〜1351) 南北朝時代の臨済宗の僧。将軍足利尊氏のあつい帰依を受け、臨済宗の夢窓疎石の流派が、室町幕府の保護のもとで大いに栄えた。 元弘の変以来の戦死者の霊を弔うため、国ごとに安国寺・利生塔りしょうとうと呼ばれる一寺一塔を建立させ、また後醍醐天皇を追善するため尊氏らの援助で天竜寺を造営し、自らその開山となった。疎石は作庭の分野でも西芳寺庭園や天龍寺庭園などの名園を残し、禅宗文化の興隆にも大きく貢献した。また疎石は生前と死後あわせて7人の歴代天皇から賜ったことから「七朝帝師(しちちょうのていし)」と称されている。
疎石が設計したとされる庭には西芳寺庭園(京都府、世界遺産)天龍寺庭園(京都府、世界遺産)、永保寺庭園(岐阜県)、瑞泉寺庭園(神奈川県)、恵林寺庭園(山梨県)、覚林房庭園(山梨県)がある。


疎石が残した本の中に『夢中問答』というものがあります。
これは夢窓疎石が時の権力者、足利尊氏の弟直義(ただよし)の質問に対して、仏教の本質、俗信、そして禅の本旨などについて答えたものです。翻訳されたものはもちろん、超訳されたものもあるのでよかったらぜひ読んでみてください。

これは口頭でのやり取りを足利直義メモしたものをもとにして書かれた本なので、2人の会話を追うように話が進んでいきます。話題になった『嫌われる勇気』とかと同じような書き方ですね。弟子が師匠に質問して、師匠が答えて、それを受けてまた弟子が質問して…という感じで進みます。過去の名著をマンガにした本は多いですが、これもそのうちマンガ化されるかも。
私が読んでみた文章から察するに、疎石は気さくで愉快な人だったんだなぁと思いました。


さて、この本の中で夢窓国師は『仏教者にとって庭園は単なる趣味ではなく、修行として重要なのだ』と書いています。現代語訳は下のようになります。

庭作りの好きな人は少なくない。だが庭を家のかざりにしたり、庭から慰めを得たりする人があるが、庭作りと仏業修業とを区別しているかぎり、本物とはいえない。庭を好む心情では世の人びとと同じに見えても、その心情を宗教心とし、庭の景色を修道の手立てとする人があれば、それこそ禅の道に専念する者の態度である。庭を好むこと自体は別に悪い こととはいえぬし、特に善いことだとも決められない。善悪は庭園にあるのではなく、それは人の心にあるのだ
(夢中問答 中巻 57 仏法と世法)

疎石も自分で庭の構想を練り、それを『枯山水という空間美術』として実体化するため、実際に施工するときにも指導的役割を果たし、さらに作った庭園を持つ寺に住持としてそこに住居して、もともとの構想通りに庭園生活を送りながら修行を行ったそうです。

理想像を描いて、実現して、その実現した世界の住人に自らなるという、アーティスト兼プロデューサーのようなことを修行としてやっていたんですね。めっちゃすごいと思います。

このようにして枯山水という作庭技術に禅の精神が込められ、技術の枠を超えた禅の世界や精神性そのものへと変化していきました。
わたしもこのまえ京都に行って、枯山水を眺めながら坐禅を組んで思ったことはあるのですが、これはまた近いうちに別の記事で。今回はわたしの主観というよりも、歴史的、事実ベースで枯山水について書いてます。


欠落に満ちた風景が、自由な精神風景を心に映す

ここまででもともと作庭技術の1つでしかなかった枯山水が、どうして禅と密接に関わるものになったのかまでを見てきました。
日本庭園がそうであったように、禅寺の庭が目指したものも自然の要約であり、小宇宙を表現することであることは同じです。ただそれが具体的で写実的な、一種のミニチュアのようなものとして作られていた日本庭園に対して、禅寺では『枯山水』という全く新しい形式を使って表現しました。

写真は旧芝離宮恩賜庭園(東京都)
具体的かつ写実的に自然を要約し、そこに作り出す日本庭園方式

前回の記事冒頭で日本庭園は『室内や廊下から眺めるための庭』と、『庭の中を人が歩きながら楽しむための庭』の2種類に分けられると書きました。そのなかで禅は内観に徹しようとする思想のため、自然を対立的に眺める前者のスタイルを発展させたとされてます。

庭の中を歩くスタイルの庭を『回遊式庭園』と呼びますが、枯山水のようなスタイルの庭には特定の名称がありません。なので勝手に『横観式庭園』と名付けることにします。龍安寺をイメージしてもらえばわかりやすいですが、廊下を歩く人に対して庭という世界は横にあり、それに立ち入ることはせず、ただ観ることでその世界と繋がります。この『立ち入ることはせず』という観照スタイルには理由があるのですが、それはこの記事の後半で。


枯山水には池も水もありませんが、観照者はこの枯れた世界に心象で水を見ます。枯山水の縁に坐れば、滝が落ちて渦を巻き、瀞(トロ)となって水が流れる。しぶきを見ることもできるし、滝音も聞くこともできます。これは観照その人だけが見ることのできる滝です。

かつて枯山水はこのようにして観照されたと言われますが、現在のわたしたちが観ている風景とはどうやら違いそうです。この違いがどこから来るのか、時代背景から見ていきます。

枯山水が最盛期となったのは室町期、つまり戦国時代でした。動乱、争乱、無秩序の長い年月の中を生きた人たちが好んだのが、この庭の景色だったんでしょう。この時代を生きた彼らにとって、石はそれ自体が自らを語りかけてくる存在でした。いや、それ以上にむしろ、石の声に聞く『耳』を持ち、石と語る『口』を持ち、石に語らせる『術』を持っていたのが、この時代を生きた武士たちであると言ったほうが正しいかもしれません。そしてそんな彼らを支えた仏教が禅宗でした。

禅宗を愛した武士や禅僧にとって庭園鑑賞がどのようなものであったのかは、詩偈(しげ:偈とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。)の中に見られます。それはつまりは様々な思考、思索を行うために枯山水を眺めた彼らにとって、自然のエッセンスしかないような不完全で、余韻と余白に満ちた風景が最適であったということ。

枯山水のような抽象的で説明的な要素がほとんどないような、象徴としての庭の方が、観る人の心によって自由な精神風景をその心に映し出すことができたのでしょう。

写真は2枚とも禅宗 臨済宗 東福寺派 大本山 東福寺の方丈南庭  木村撮影


禅と枯山水

禅僧にとっての庭は美的対象であると同時に、内観のための思考や思惟の対象でした。そしてこの枯山水は自然を要約し、余分な部分を極限まで削ぎ落として要素だけに概念化したものだということを見てきました。
そして実はこの枯山水もさらに2つの種類があります。

1つは大徳寺大仙院に見られるようなもの。滝あり、川あり、それが大きな流れになって海に向かう様子まで具体的に作ってあります。山にある滝や川の一部分を枯山水の技術を使って表現した、枯山水版のミニチュアのようなものといえばわかりやすいでしょうか。ここでは概念化というよりも、現実にある景色を象徴化した庭になっています。
私達は一度に世界を視野に収めることはできませんが、この枯山水の前ではそれが可能です。石組の背後に実在の世界が見えるようです。

写真下は大徳寺大仙院の枯山水


ただこれは龍安寺にあるような枯山水とは大きく違います。
もう1つの種類とは、龍安寺の枯山水のようにもっと抽象化次元が極めて高く、山頂から周囲に広がる山脈が雲海から覗く様を見るような、途方もなく巨大な自然、深山幽山を表す象徴として石や砂を使っているものです。他にも島国である日本の自然を要約し、海に浮かぶ島を表しているようにも見えます。

写真3枚目は龍安寺 木村撮影


ここには生きた木も流れる水もない。そこにある石は死んでいるわけではもちろんないものの、変化という時間の流れからは隔離されたものです。このような枯山水が表す自然世界は、時間という概念の源である『無』にまで抽象化されたものと言えるかもしれません。無という時間の瞬間を切り取った永遠であり、集約された宇宙の観念そのものでもある

極端なまでに全てを削り落としたからこそ、観る人に心象によってあらゆる小宇宙とも言える幻像をみせる。これは禅の否定の中に本質を見ようとする姿勢が持つ、とても豊かで艶やかな世界そのもののようにも思います。


実はここに枯山水に回遊的要素がなく、屋内から観照する『横観式』になった理由があります。なぜならこの庭は人体のスケールや動作とは無関係な象徴世界だからです。目の前にある庭は巨大な山脈を見下ろすような風景を描いたり、はたまた海に浮かぶ島の風景を描いたりしています。なのでこの中に人間が入り込んでしまうと、心に見えている雄大な風景が崩壊してしまう。
中に入らず、横から観るからこそ人のあらゆる想像を可能にし、なおかつ禅宗芸術が得意とする逆説的な表現にも一致するものになりました。

またこれらの庭はその敷地内だけで世界が完結するものではなく、『借景』という遠く離れた景色をあたかも庭の一部であるかのように扱う技術と組み合わせて作られました。龍安寺石庭と同じ種類の石庭である大徳寺東庭、真珠庵東庭、円通寺、一休寺東庭、正伝寺等はすべて例外なく借景式であったそうです。

狭くありながら雄大で、欠落ばかりでありながら豊潤であり、素朴でありながら艶やかである。矛盾と葛藤がせめぎ合うこの枯山水はまさに禅宗的芸術というにふさわしいものだと思います。

写真は円通寺の枯山水と借景



枯山水の機能的価値

さて前回からここまで、枯山水の出自である作庭記から、枯山水に禅宗精神を込めた夢窓国師、枯山水とその鑑賞者の態度、禅宗芸術的枯山水の2種類というふうに見てきました。

ここでは禅宗の中の枯山水という視点から1度離れて、機能的価値についても見ていこうと思います。これまで書いてきたような、禅宗精神の表現やその観照者が感じるような価値が情緒的価値とするならば、ここで見ていくのはもっと論理的で測定可能な価値です。

枯山水は修行であると同時に芸術でもあるという概念的な価値が注目されますが、この作庭形式が広く使われるようになった背景には現実的な事情もありました。

まず、京都の庭でつかわれた砂は『白河砂』と呼ばれるものです。京都の白河で取れる花崗岩の風化で生まれた石です。白色が美しく、その中の黒いゴマの色が、白い砂でありながらも派手さをおさえています。枯山水の技法が京都では多く見られるのに東京では作られなかった理由は、この白河砂のように白く美しい砂が関東にはなかったことがあります。
(このあたりのことは以前ブラタモリでも扱ってましたが面白かったです。)

写真は臨済宗 建仁寺派 大本山 建仁寺 木村撮影
美しい白河砂が豊富に手に入ったことも枯山水ブームを後押しした。

そして京都は湿気が多くじめじめしていて暗い日も多いです。そのために白河砂にあたる日光の反射を使って大きな屋根をもった家屋の暗い室内を明るくするという機能がありました。写真で屋根の裏側の部分がほんのり明るくなっているのがわかるでしょうか?実物を見るともっとわかりやすいので、見に行った際はぜひ。
さらに砂を重ねて敷きつめれば雨の跳ね返り水も少なくなる。暮しの上でも大変便利な機能も持っていたということです。

写真は臨済宗 建仁寺派 大本山 建仁寺 木村撮影
日光が砂に反射して寺内の奥まで光が届いていました。
非常に合理的で効果的な庭造りです。

他にも応仁の乱によって京都の町が焦土になってしまったので、各寺院は池庭を作るほどの余裕がなくなってしまったこと。庭に石を配置しただけの枯山水の形式は、従来の庭に比べて樹木や岩石を大幅に減らすことができるので、経費の節約になったこと。貴族が邸宅に自由に水を引けなくなってしまったために、苦肉の策として枯山水を用いたなど。
その機能的価値と京都の情勢的事情がうまく組み合わさったことも、現在のように枯山水がたくさん作られたことの背景にはあるようです。


虚にして実、実にして虚。禅的なデザイン

さてここまで枯山水についてあらゆる面から見てきました。禅について直接書いてきたわけではないながらも、その輪郭をも見えてきたように思います。

枯山水とは何かをもっとも狭い範囲で説明するなら、水を用いずに水を表現する技術です。これはつまり非実在の水を実在する砂利を使って表現しています。
虚にして実、実にして虚。
現実でありながら非現実を表現し、それを強烈に押し出している。実在から離反しながら、象徴的に実在を表現する技術によって、枯山水は禅宗美術としての造形性を強めることができました。

この『虚にして実、実にして虚』という態度の中に禅の姿勢があるのだとすれば、そして心象で各々が描く景色にこそ枯山水の真実があるのだとすれば、このnoteで書かれていることを頭に入れて枯山水を見たところで、それは決して何も見ていないということです。
そしてもちろん私自身も、このような知識は持っていながら、枯山水そのものと向き合うときにはこんなことは全て取っ払って、そのものと対峙する必要がある。

世界とそれを見る自分との間に何も隔てず、あらゆる情報、あらゆる先入観を排してそのものを見ることができたとき、初めてそのものを見たとすることができる。

このような態度に立った人物が庭を作ったときに現れるのが、枯山水という明らかに何かが欠落し、足りていないにも関わらず、しかし何ひとつ付け足すことができない庭です。あくまで無造作で、静止しているはずなのに、その中に激しい流れや幽遠な景色が現れる。

絶対的な否定がそのまま肯定であるように、絶対的な欠落がそのまま満ち足りた景色を作り出す。これこそが枯山水の描き出す景色であり、禅が示す世界との対峙の仕方なのかもしれません。


※参考
・NHKブックスカラー版「作庭記」の世界 平安朝の庭園美(1986)森蘊 日本放送出版協会
・日本美を語る 第7巻 瞑想と悟りの庭(1989)新集社
・日本の庭園美 龍安寺 枯山水の海(1989)西川孟 集英社
・夢窓国師 夢中問答集(2000)校注・現代語訳 川瀬一馬 講談社学術文庫
・龍安寺石庭を推理する(2001)宮元健次 集英社新書

※本文中で使っている木村撮影の写真はいずれも2019年3月1日および2日に撮影したものです📸

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