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「多様性」ほど多様な言葉も無い

今回は「多様性」特に[性別の多様性:ジェンダー]の問題について、私の所感を述べる。人によっては、もしかしたら気分を害されてしまうかもしれないことを、予めご了承頂きたい。

ここ数年、多様性という言葉が世間であふれるようになった。近代〜現代までの人間の画一的で一方的な思考や行動を反省し、ポスト現代ではあらゆる個人や種を尊重し、保護していくことが良いことだと社会に合意された。国や宗教によってその進度に差はあるものの、確実に今まで社会的弱者であった人々に光が当たりつつあるし、人類によって数を減らした種の絶滅を防ぐ運動も盛んになっている。これから先、「多様性」という概念は私達人類の社会により深く潜り込んでいくだろう。
しかし私は、「多様性」という言葉を社会が本質的に理解できていないのではないかと思う。確かにこの概念が社会に持ち出されてからまだ時間が経っておらず、単純に浸透していないのはもちろんある。しかしそうではなくて、私はこの「多様性」という言葉を発する主体でさえも、この言葉の本質を捉えられずに使っている場合がほとんどなのではないかということが言いたいのである。今回のnoteでは、この「多様性」という言葉に感じた違和感、特に性的多様性について書き連ねていく。
最近はLGBTQ+という頭字語をよく聞くようになった。自分が当事者でなくとも、この言葉の表す意味を知っている人は多いだろう。そしてこの性的多様性の際の象徴として使われるレインボーフラッグは、現在6種類の色で構成されている。性的多様性を虹のグラデーションを使って表現しており、その色ひとつひとつにも意味が込められている。
しかし実際の空に出る虹は、地域によって色が異なる。別に、虹自体の構造が変わって色に変化がある訳ではない。正確に言うと、虹を何色にするかという区分が地域によって異なるのである。日本では基本的に虹は7色で表現される。しかしこれは決して、世界共通ではない。アメリカでは6色、ドイツでは5色、南アジアにあるバイガ族の人々は2色にしか区分をしない。これは日本人がより細かく色を識別できる目を持っているのではなく、色のグラデーションである虹を、それぞれの母語となる言語によっていわば ”たまたま” 7色や2色に分けたのである。そこに人間の生物学的な能力の差はなく、これらの文化の中で、眼前に映る虹を言語によって細分化して理解しようとしたとき、それが多いのか少ないのかという単純なことである。虹の見え方についてのわかりやすい説明がウェザーニュースの記事にあったので、気になる方は読んでほしい。

このような現象はあらゆるところに見られる。太陽の色を赤で描く日本と、黄色やオレンジで描く西洋。雪を表す言葉が沢山あるイヌイット。雨を表す言葉が数多くある日本。人間は母語となった言語によって異なる世界の区分けを無意識のうちにしている。
そしてこの現象は、性的多様性にも切っても切れないものである。いわゆる性的少数者と呼ばれる人々やその人に近しい人々は、この世界の性別の区分けを細かく行っている。彼らはこの細かい区分けを「母語話者的」にしているのである。しかし、それと今まで無縁であった人々は、2つの生物学的な区分けが「母語話者的」であり、細かい性別の区分けは逐語的に翻訳されたネイティブではない区分けである。
そしてこの差は思っている以上に大きく、簡単には乗り越えられないもののように感じる。現在行われている性的多様性の舌戦は、この真ん中に空いた奈落に気が付かず、互いに言いたいことを一方的に言い、奈落に落ちて反対側まで届いていないのである。様々なジェンダーを肯定する人々は、とても良いことをしているだろう。自己決定権は個人に帰属するべきだと私も思う。しかしそれを訴える人々は、その多様性が彼らにとっての心理的な母語であり、その母語を持たない人には、文面は伝わったとしてもその本質は伝わらないことを、考慮しなければならない。この状況は既存の性別観を持つ人々にも当てはまる。細かい性別の区分は彼らにとって母語ではない、つまりこの区分は「自分とは関係ない」のであり、本質となることはありえないのである。しかし、その価値観は特定の人々を無意識のうちに攻撃していることを知る必要がある。互いに自分のかけている眼鏡のレンズに色がついていることを、認識しなければならない。
ではそれを一体どうやって認識するのか。私は、勉強するしかないと思う。勉強というのは単にテストで100点を目指すものだけではない。五感を使って様々なものをインプットし、それをまた五感を使ってアウトプットする。本を読んだり、人と話したり、作品を作り上げたりして、新しいことを知ろうとする。それらすべてが勉強となり得る。そしてこのときに重要なことが、「私はこのぐらい知っている」ことを知るのではなく、「私にはまだ知らないことがたくさんあった」ことを知ることであると思う。前者の認識は無意識にかけている色眼鏡をより補強することとなる。しかし後者の認識によって、後天的に植え付けられた言語や文化によって作り上げられた色眼鏡を壊すことはできないまでも、色眼鏡をかけていたという事実に気づくことはできる。まぁ、更に次元を引き上げると「実は私は色眼鏡をかけていたが、それに気が付くことができた」という色眼鏡をかけていることにほかならず、結局は堂々巡りとなってしまうわけだが……。しかし今回は人間の認識論について話したいわけではなく、目下の性的多様性の違和感の解決を目的としているので、あまり踏み込まないこととする。
今回のnoteについてまとめる。「多様性」という言葉のグラデーションの区分けは個人によって様々であり、それぞれの性別認識に至極当たり前に存在する、異なる「多様性」があるのである。現在は多様性という言葉が独り歩きをして、既存の生物学的分類がその多様性から仲間はずれにされているように感じる。個人によって性別という虹の見方はそれぞれであり、そしてそのこと自体を認識することが、真の「多様性」につながるのではないかと思う。

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