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ライフヒストリーとしての『オッペンハイマー』

先日、映画『オッペンハイマー』を観てきたのだが、とても面白かったので今回は映画素人の私が映画批評をしてみようと思う。題名はライフヒストリーとしての『オッペンハイマー』である。ライフヒストリーというのは日本語訳にすれば「個人生活史」となる。今までの歴史学や社会学とは異なり、特定の人物について、手紙や伝記、インタビュー、日記などさまざまな視点から着目し、今まで学問の普遍性によって蔑ろにされていた「個人と社会の繋がり」や「主観から見た動的〈dynamic〉(⇔静的〈static〉)な社会」を浮き彫りにする手法である。

私は映画の原作となった『American Prometheus』を読んでいないため、このnoteはあくまでも私の感じ方、考証に基づかないエッセイ的な批評になってしまうだろう。しかしながら自分の考えをまとめておくため、作品を観た他の誰かが私の感想を読むために、文章を書いていきたい。

人それぞれこの作品で印象に残っているところはあるだろうが、私があげるとすれば、やはり実際に日本が受けた原子爆弾の描写が明らかに少ないところである。この映画が原爆の悲惨さを訴えるために用意された作品であるのなら、描写の無さ加減は明らかなミスであると言わざるを得ないだろう。しかし、この作品がオッペンハイマーのライフヒストリーとして捉えたとき、あえて描写を減らしたことは、この作品の良さに貢献していると感じる。

オッペンハイマーが原爆を完成させ、日本に落としたのちにスピーチをするシーン。あそこで彼が想像したイメージは、被曝によって皮膚が剥けたり嘔吐したりするアメリカ人であり、日本人では無かった。あそこできっと日本人が登場することは不可能では無かったはずだが、それはなされなかった。

私が思うにその理由は、オッペンハイマーが原爆に対する葛藤や苦悩を抱えつつも、彼の中に日本人という確固たるイメージは存在せず、それゆえ無意識に作り出した映像(幻覚)はやはり身の回りに多くいるアメリカ人で補われているのであり、それゆえに彼自身の主観でしかないということである。すなわち、世界で最も原子爆弾のことを知っていると言っても良いオッペンハイマーでさえ、実際の原爆の惨憺たる被害を忠実に自らに落とし込むことは難しく、そんな個人に焦点を当てることにより翻ってアメリカ全体はなおさら実情を把握することは難しい、ということをこの作品から感じ取ることができるのである。

確かに、その日本とアメリカの差によってしばしば問題が露出することがあり、いつかこの溝が埋まっていくことは期待すべきことである。しかしながら、同じ「知っている」状態、同じ「悲しんでいる」状態でも、言葉に対応する内実は人それぞれであり、その内実は国家や文化に少なからず影響されているということを、オッペンハイマーという「アメリカと原爆」の象徴を主人公に当てることで成功しているのである。これは、日本人よりもアメリカ人の方が原爆に対する理解が劣っていとし、なおかつそれを悪だとする主張ではない。相互的にその理解を押し付けあっていたら溝は深まるばかりである。原爆という莫大で危険な力でさえも、人間はさまざまな制約によって本質を(仮にあるとしたら)共有することが難しいのであり、それが原爆ではないものではなおさらである、という主張である。

これにて、今回の批評を終わりにしたい。映画批評は慣れないことであり、読みにくかったりするところもあるだろうが、読んでいただいてとても嬉しい気持ちである。ありがとう。まだ語りたいことはあるが、今回はこれでおしまい。


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