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蝉が鳴き止む頃、僕は兄じゃなくなった


兄じゃなくなったわけ


2人の弟。

彼らとは、20年近く会話といった会話を交わしていない。

喋らなくなった原因が何であったか?

お互いに避けるようになった理由が何であったか?

正直、全く覚えていない。

1つ覚えていることは、夏休みが終わろうとしている頃、
兄弟喧嘩をした。

この喧嘩以降、兄弟の間で会話がなくなったのだ。

蝉が鳴き止む頃
僕は
兄じゃなくなった。

1991年8月。
僕は三人兄弟の長男として生まれる。

2年後、次男が生まれ、3年後三男が生まれた。

男3人兄弟。

物心ついたころ、常に弟がいて、毎日一緒に遊んでいた。

近所では、めちゃくちゃ仲の良い兄弟。
という認識であっただろうし、実際そうだった。

弟2人とセットで、僕は成り立っていた。

クラスの友達と遊ぶ時も弟は一緒だった。

公園、友達の家、どこに行くにしてもいつも一緒だった。

逆に弟がいないと物足りないしつまらない。
そんな感覚さえ持っていた。

僕は弟が大好きだし、弟も僕が大好きだったのだ。

そんな仲の良い男3人兄弟だが、喧嘩ももちろんする。

男同士の喧嘩ということもあって、殴る蹴るの喧嘩。

泣くまで止めない。

ガチガチの喧嘩だ。

一緒にいる時間が長い分、喧嘩の頻度もかなり多かったはずだ。

毎日一緒に遊んで、毎日喧嘩して。。。一晩寝れば仲直りしている。

そんな仲の良い兄弟だった。

だが、ある日、仲の良い兄弟関係が突然終わりを告げる。

冒頭に書いた通り、喧嘩の理由は全く覚えていない。

だけど、気付いたら仲直りが出来なくなっていたのだ。

おそらく、
喧嘩状態が長引けば、誕生日プレゼントに買ってもらったゲームを独り占めできる。
弟が謝ってくるまでこのままの方がいいや!
とか思っていたのかもしれない。

1日、2日、一週間、一か月、半年、一年。

仲直りするタイミングを逃し、会話が完全になくなったのだ。


3人兄弟で、次男とだけ会話するとか、三男だけと会話するとか、僕だけ無視されているというわけではない。

全員、仲が悪いのだ。
いや、仲が悪いという次元ではないのかもしれない。

今になって思う。
『喧嘩するほど仲がいい』
この言葉は本質を捉えている。


喧嘩というのは、お互いの意見のズレ、意見のぶつかり合いから発生する。

本当に仲が悪いと、コミュニケーションが存在しないから、
喧嘩すら起きないのだ。


会話も喧嘩もなくなった兄弟は、
小学生から中学生、高校生、大学生へ成長した。


その間、兄弟の距離が縮まることは一切なかった。

同じ家で暮らしながら、会話することはもちろん、
お互いの顔をしっかり見ることもない。


こんな関係性なので、家族で出かける機会は小学生以降グッと減り、
旅行に行った思い出もない。

おそらく、親も僕たちの関係性をどのように修復したらいいか分からなかったのだと思う。

子どもたちが楽しそうにしていないと、旅行に連れて行くのも楽しくないですし。

ただ、たま~にある親戚の集まり。

数年に1回のペースで来る、避けたくても避けられないやつ。

例えば、会食の場とかで、弟と対面で座るとびっくりする。

僕の知ってる弟の顔じゃない。

大げさではなく、僕が弟の顔を見る機会も、見ざる負えない数年に1回。

親戚のおばさんが、弟君大きくなったね!
って言っている感覚と何ら変わらないのだ。

こういう親戚の集まりでも、
僕たち兄弟はもちろん一切話さないので、次第に違和感に気付く人が出てくる。

僕は、違和感に気付かれるのが怖かった。


兄弟関係が修復できない理由が誰にあるか?

答えは明確で、長男である僕だ。

そこに触れられるのが怖かった。

ただ、そこに触れられることはなかった。

違和感に気付かないはずはないと思う。

だって、一切喋らないんだから。

触らぬ神に祟りなしって感じで、
面倒なことに突っ込まない方がいいと思ったのだろう。


僕たち兄弟は、お互いに話さなくなり、多くの時間を失った。

気付けば、社会人となり、それぞれ実家から旅立っていった。

それぞれの道へ、そして再開


社会人になってから、僕は関東、次男は近畿、三男は中部と住むエリアがバラバラになり、顔を合わせることすらなくなった。

普通の兄弟であれば、帰省のタイミングを合わせて年に数回会ったりするのだろうが、僕たちの場合は真逆。

帰省のタイミングで兄弟がいないことを願うのだ。


社会人になってから、休みの期間はやはり被る。

その間、一緒になる気まずさは兄弟皆が感じる共通の問題だった。


母に電話し、弟が帰省するタイミングを確認して被らないように自分のスケジュールを立てる。

こんなことをしていた。

このころになると、もう、怖かった。

兄として、自分から歩み寄れなかったことを社会人になって、距離ができてからずっと後悔していた。

だけど、弟と顔を合わせたら面と向かって会話できるわけがないことは分かっている。

だから僕は弟と顔を合わせるのが怖かったし避けていた。

そんな中、父が亡くなる。

僕は父が大嫌いだった。

だが、
息子たちが20年近く会話すらしない。

そんな関係性が解消しない中、亡くなっていった。

父の人生はこれで楽しかったのだろうか?

そんなことを考えるとむなしくなった。

長男として、
兄弟の関係性を修復できなかった責任を痛いほど感じていたから。

父が僕たち兄弟のことを気にかけていたかどうかは、正直分からない。

だけど、僕たちが仲の良い兄弟だったら、父が僕たちに接する態度も違ったのではないか?

そんなことを考えると、父の父としての時間も奪ってしまったのではないか?そんなことを考えていた。

そして、気にかかるのは母のこと。

息子たちが仲良く話している姿が小学生のまま。

この記憶のまま、母の母としての時間も奪ったままで良いのだろうか。

変わらなきゃ。変えなきゃ。


近所の神社で行われる夏祭りを何週間も前から楽しみにして、
出店の回り方や、抽選会で何を狙っているかなどなど、
ワクワクしながら話し合っていたあの頃に戻りたい。

『...Line教えて』

考えに考えた結果、
僕が、弟に対してひねり出した言葉だった。


約20年ぶりの会話だった。


そう、僕たち兄弟はお互いの連絡先を知らなかった。

知る必要性もないと思っていた。

だって連絡しないんだもん。

うん。

という一言だけの返答があり、それぞれの連絡先を交換する。

僕たちの関係性を知らない人からすると、
異常な兄弟の会話に思えるかもしれない。

そして、
僕たちのことをよく知る母からしてもこの光景は異常だっただろう。

でも、異常の意味合いが違う。

砂漠で遭難しのどがカラカラな時に、
大雨が降るというような救いの異常気象。

母にはこんな感じの異常な光景に映っていたのだと思う。

『...Line教えて』という一言。
この声掛けをするために、3日かかった。

忌引きで帰省して、父の死に向き合い、変わらなきゃと決意し、行動に移すのに忌引きの限度いっぱいの3日かかった。

そして、これ以上の会話をすることはできなかった。

すごく小さな一歩だけど、20年間できなかったことができた。

僕にとって、おそらく、家族にとっても大きなきっかけになると思った。

現実は映画のように進まない



ここまで読んだいただいて、
今は仲直りして、仲の良い兄弟に戻ったんでしょ?
と思われる方もいらっしゃるかもしれない。

だけど、残念ながら、今も仲の良かったころに戻れていない。

いろいろな後悔や責任感を持ってきた。

そして、変わらなきゃ。と今でも思っている。


ただ、20年というブランクはかなり根深く、
弟とどのように接したらいいか分からないという感情を持ち続けている。

というのが正直なところだ。

ただ、その中でも少し好転したこともあって、
父の死以降、もう一度兄弟が再開した場面があった。

コロナが流行する数か月前に行われた、僕と妻の結婚式だ。

前々回の記事で、妻が突然結婚式場を予約してきた!
みたいなことを冒頭で書いているが、
兄弟が不仲であることを知っていた妻が、
きっかけを用意したい!と思ってくれていた。
ということが、結婚式開催の理由の一つだった。

弟が結婚式に来る。

この事実から僕は逃げたくなった。

だけど、
ここで逃げたらチャンスをくれた妻も裏切ることになってしまう。

変わらなきゃ。

そして、結婚式当日、
僕は、この場を借りて、兄弟へ、この空白の20年間の思いを伝えた。

妻との結婚式という場で、
何をやってるんだ??と思われる方もいたかもしれない。
不器用すぎる言葉に苦笑いしていた人もいたかもしれない。

ただ、僕はこのチャンスを逃したら、一生後悔する。

そう思っていた。

面と向かって喋れないから。

そんな弱い人間だから。

話し終わると、弟二人は緊張交じりの笑顔という、なんとも言えない表情をしていた。おそらく、僕も同じ表情をしていただろう。

そんな中、大きな変化があったのは、母だった。

文字通り、
泣き崩れていた。

父の死など、つらい出来事も多かったであろう、
母の見たことのない姿だった。

普段決して涙を見せない、そんな強い人だからこそ、
僕、そして弟から見ても衝撃的な光景だったはずだ。

結婚式後、母の姉にあたる、おばさんに呼び止められ、
意外な言葉をかけられた。

『○○君。あなたのお母さん、ずっと責任感じてたよ』

僕が、一週間・一か月・半年・一年...弟と会話がなくなり、
どうすればいいのか分からず悩んでいる間、
母も同じように悩み、姉へ何度も何度も相談していたとのことだった。

母は取り返しのつかないことをしてしまった。
と、母としての自分をかなり責めていたようだった。

何とか、兄弟の中で解決してほしかったけど、
それが出来ずに、結局介入するタイミングを逃してしまったと。

僕は母の後悔と悩みを一度も感じたことがなかった。

これが、母の強さだったのだろうと感じるとともに、
解決できなかった自分の弱さを再度痛感した。

変わらなきゃ。変わりたい。

僕は、おばさんと話し終わると、
母と一緒にいる弟二人のもとに向かった。

タキシード姿の僕と、
ビシッとスーツを着た弟二人。
仲良く遊びまくってた頃の、半袖半ズボンの僕ではないけれど、
僕のお古の服を着た弟二人ではないけれど、
その時のような笑顔で、僕たちは握手ができた。

結婚式は、7月。
蝉が鳴き始めた頃だった。

その後、僕は2児の父親になった。

結婚式後、コロナな世の中になり、
子どもを連れて帰省をすることができなかった。

数年間地元に帰っていない。

そんな中で、弟とも連絡を取っていない。

結婚式で見た弟の姿が最後だし、会話もそこが最後だ。

だから、映画のように今では失った時を取り戻すかのように、
仲良く居酒屋に行って語ってます!
みたいなハッピーエンドではない。

バリバリの未解決事件だ。

それなのに、なぜ今この記事を書いたのかというと、
近いうちに子どもを連れて帰省する予定があるからだ。

何かの因縁か、運命か。
帰省するタイミングは、蝉が鳴き止む頃である。

20年の時を経て、強く、大きな一歩を踏み出したい。



蝉が鳴き止む頃

僕は

兄でありたい





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