♯1 洞泉寺遊廓の終焉と町の人たち 全ては売防法公布から始まった
1. はじめに〜遊廓と売春防止法について〜
昭和31年(1956)5月24日に公布された「売春防止法」によって、国内における一切の性売買が禁じられた。実は明治以降の日本には、公娼制度のもと国が認め管理した性売買のための店(遊廓)や娼婦が存在し、これらの店は「貸座敷」、娼婦は「娼妓」とよばれていたのである。戦後、GHQによって公娼制度が名目上廃止されたが、実際には性売買営業は存続し「赤線(特殊飲食店)」として取り締まり対象から除外されていた。
奈良県大和郡山市の「洞泉寺遊廓」も特殊飲食店として営業していたが、売春防止法の施行によって転廃業を余儀なくされ、明治から約80年続いてきた近代遊廓の歴史に幕を閉じた。これらの歴史に関する研究は、近年少しずつ進められているが(※1)まだまだ謎に包まれた部分が多い。そこで売春防止法前夜の洞泉寺町の様子を、地元週刊誌「サンデー郡山」(※2)の記事から拾い上げまとめたみた。
↑ 遊廓があった大和郡山市洞泉寺町。大和最大の郡山城の城下町にある。
2.売春防止法の成立に対する町の人の声
まずは、売春防止法成立後すぐの昭和31年6月3日の記事から、町の様子を紹介したい。
※史料を公正な目で見ていただきたいので、内容は省略せず分割して引用する。
※ここで紹介する記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
まず、ここからわかるのは以下の3点。
(1)多くの人が売春防止法の実施について懐疑的に見ていた
(2)記者は郡山の両遊廓について全国でもめずらしい色街と考えていた
(3)戦前(主に大正時代)の桜の季節、遊廓はとても繁盛していた
では、具体的に町の人の声を拾ってみよう。
このように、さまざまな立場の人の意見が記載されているが、まとめると以下のようになるだろう。
(1) 赤線が廃されても、実際に売春はなくならず、形を変えて残るだろう
(2)売春防止法施行後の市の経済的な影響を考えると痛手である
(3)売春防止法施行後の接待婦の経済的な保証が必要ではないか
(4) この法案を現実のものとするには、みんなの努力が必要である
まだ、売春防止法が公布されて間もないため、この後どうなっていくのか予想もつかず、本当に施行されるのかも半信半疑だというのが、大方の意見のようだ。
3.赤線業者は売春防止法をどう見るか
それでは次に、当事者である特殊料理店関係者の声を紹介したい。
これら二人の組合長の言葉によって、これまで知られていなかった事実を含め以下のことがわかる。重要と思われる点を列挙する。
(1)接待婦の中には家族へ毎月最低1万円を仕送りする人もいる
(2)転廃業は接待婦の働く自由を奪うものだという考えがある
(3)赤線の廃止によって、私娼や性犯罪が増加する恐れがある
(4)岡町の接待婦は連合軍の慰安婦として駆り出されていた
(5)戦後10年の間、政府黙認という形で営業を続けていた
(6)転廃業後の店や接待婦の補償は、国による融資が準備されてる
(7)赤線の廃止で、郡山全体の飲食業が淋しくなる
↑ 昭和30年代の郡山町銀座通り(『大和郡山・天理今昔写真集』樹林舎)
4.記者の視点から見る売春防止法施行後の町
それでは、これらの町の人々の声を聞き、サンデー郡山の記者はどのように考えたのか、詳しくみたい。
ここからわかるのは、以下の3点である。
(1)記者も、売春防止法は完全施行されないと予想していること
(2)非合法の営業が黙認され、半分程の収入減で済むのではと楽観的なこと
(3)1日50〜60万円、年間で2億円の経済的損失が予想されていること
(1)はこれまでに何度も公娼制度廃止法案が提出され、審議されながらも立ち消えになってきた歴史から、多くの人がそう考えていたのだろう。そして注目したいのは、(3)の郡山に来た遊客が1日に落とす金額だ。これについては、まだ一次資料によって確認してないため正確なデータが手元にないのだが、もしこの数字を信じるのであれば、大卒の国家公務員の初任給が月額1万円に満たない時代に1日50〜60万円、年間で2億円もの経済効果があったことになる。町を潤していたこれほどの大金を、売春防止法施行以降一切失ってしまったら、大和郡山市の財政はどうなってしまうのか。水田市長が言葉短かに「痛手だ」とつぶやいたとき、どれほど沈痛な思いを抱いていたかは想像に難くない。
また「大卒の国家公務員の初任給が月額1万円に満たない」ということから思い起こすのは、3人の子供が少しでも良い学校に行けるようにと必死に働き、毎月一万円以上を仕送りしている接待婦のことだ。この先何とかうまく転業できたとしても、彼女たちは今までのような額を稼ぐことはできないであろう。生活に行き詰まったとき助けになるはずの国の補償も、融資を申請しなければならず先行きは暗い。
このようにさまざまな問題を抱えながらも、売春防止法は布告され、2年後の施行を待つのみとなった。その後、赤線に生きる人々はどういう選択をするのか。また町の人の心はどう変化しているのか。次回は、売春防止法施行4ヶ月前の昭和32年11月17日の記事を紹介したい。
【参考文献】
※1 山川均「又春廓川本楼、娼妓「奴」について」『女性史学29』2019
※2 乾実『サンデー郡山より昭和三十年前後の郡山 下』サンデー郡山社 1979
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