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#2 洞泉寺遊廓の終焉と町の人たち 売防法施行4ヶ月前


1.売春防止法施行を4ヶ月後に控えた赤線のようす

 前回は、売春防止法が成立してまもない昭和31年6月の記事を紹介したが、それから1年5ヶ月後の昭和32年11月17日、町はどうなっていたのかを見ていきたい。まずは岡町と洞泉寺、両赤線について当時の様子を紹介している。

来春姿消す岡町・洞泉寺 大半旅館などに転業
 売春防止法の罰則が、いよいよ来年4月から発効する。転廃業が予想以上に進まないのに業をにやしたのか、11月1日から接待婦の新規雇用が禁止され、これを犯したというので奈良の二業者が検挙された。
 全国でも珍しい2つの赤線地帯を持つ郡山の悩みは大きい。現在の状況、将来の見通しなどを関係者に聞いてみた。
 29軒の業者があった岡町では、牛乳屋、麻雀、間貸し(2)、廃業と五軒が営業を止めており、接客婦も100名余りに激減している。竹川組合長の話では「11月いっぱいで揃って転業したいと思っていたが、正月前でもあるので、正月をすました1月末に転業する予定である。廃業後は料理、旅館などそれぞれ転業することになるだろう)。
 一方洞泉寺でも、16軒のうち1軒は早くも2年半前に廃め、1軒が今月始め廃業、1軒が休業しているので13軒になり、接客婦も50人余り。ここの見通しを豊田組合長に聞くと、「組合で転廃業の話をしても、未亡人の営業者もあり、一口に転業と言ってもこんな裏通りでは、相当な決断がないとできない。資本の要らぬ損のない旅館業などに転業するより仕方がないと思っている」。
〈以下続く〉

 このように前回の記事から1年半で縮小傾向にあることがわかる。
それではここの要点を列挙し、わかりやすく比較してみたい。

(1)岡町にはもともと29軒の特殊飲食店があり、洞泉寺は16軒あった
(2)昭和32年時点で営業している店は、岡町が24軒で洞泉寺は13軒だった
(3)この時点で接待婦の数は岡町100人余、洞泉寺は50人余だった
(4)岡町では最後の正月の売り上げを見込んで、一月末まで営業する
(5)岡町の多くの店は、料理屋、旅館、間貸しに転業の予定である
(6)洞泉寺の多くの店は、旅館業に転業するより仕方ないと考えている

 前回の記事で昭和30年度、岡町の人々が納めた市民税は90万円であったのに対し、洞泉寺は30万円だったとの記載があった。岡町の三分の一である。そして今回、店の軒数と接待婦の数が記載されており、洞泉寺はどちらも岡町の約半数であることがわかる。近鉄郡山駅近くに位置する岡町の繁栄ぶりがうかがえよう。売春防止法施行後も、土地の利を活かした(※下地図参照)様々な業種への転業が可能と思われ、この段階でも困惑する洞泉寺の組合長と、今後の予定を淡々と語る岡町組合長の明確な温度差が感じられる。


2.売春防止法施行4ヶ月前の町の声

 それでは同じ時期、周辺住民はどう考えているのかを見てみたい。

 郡山が色街である関係も何程かは影響しているのかも判らないが、町で聞く市民の声は、売防法を全面的に賛成する声は極めて少ない。その理由は、性の本能を赤線地帯の消滅だけで押さえられるものではない。遊客にしても、赤線がなくなれば遊びを止めるという人は極めて少なく、「無くても遊びに事欠かぬ」と言っており、極端なのは「相手がなければ強姦だ。それも良家の奥さんか、娘さんを相手にすれば外聞をはばかって警察にも届けまい」という、デン公(※どう言う人を指すのか不明)の言葉を聞いた業者もある。
 既に来春の廃止に備えて、アイマイ屋(※許可なく性売買を闇で行う店)も2、3軒出来ていると噂する人もある。その他麻薬と売春婦、暴力団と売春婦、地下に潜った売春婦と性病など、取締当局は絶対の自信があるだろうか。
 郡山としては町も小さくこれらの心配は少ないが、一番の問題は金だ。遊客が一人1500円使うとして日に150人、年間3000万円の金が郡山をうるおしていたのが、無くなると影響する方面が少くない。
 婦人相談員も県、市に置かれたが、相談に来る接待婦は殆どないようだ。ただの相談相手だけでは相談しても仕方がないと思っているようだ。現在なお働いている接客婦は家に送金するため、どうしても働かねばならぬ人と、楽をして金を儲けるアブレ型で、中途半端なのは少ないと言うことである。
 猶予期間も後4ヶ月余、売春を立ち切った郡山の姿は吉か、凶か、法律が決まった以上災いを少く、皆んなが幸福になるよう、最善の努力をするより仕方がない。(昭和32年11月17日号)

 市民の人の声や噂を記載しているが、大まかに下記のようになるだろう。
(1)郡山市民は売春防止法に反対の人が比較的多い
(2)理由の一つ目は赤線がなくなることによって性犯罪が増えるから
(3)二つ目は売春防止法が機能せず、闇営業で性病や犯罪が蔓延するから
(4) 三つ目は年間3千万円のお金を生む赤線が無くなるのは経済的に損失だから

 この段階になってもなお、ネガティブに考えられていたことが分かる。特に(2)については、この前年、町内で立て続けに強姦事件が起きており、町の人々は赤線廃止後にこう言った事件が増えるのではないかという不安を抱いていた(※次回紹介する)。また、(4)については前回の記事で豊田組合長が言った経済効果と比べてかなり見劣りするが、1年半の間に廃業した特殊飲食店や接待婦の数から考えて、試算した金額だと思われる。

3.廃業4ヶ月前の接待婦の声

 それでは、最後に接待婦自身の声をみてみたい。上記の記事が掲載された一週間後の11月24日号から紹介する。

接待婦になって子供を高校卒業 生きて行くにはこれより仕方ない
ここにも戦争の傷跡があった

 売春防止法の罰則発行を控えた郡山の動き、見通しなどを前号に記したが、この法律の主目的の一つである接待婦の更正は、当局が意図するように、うまく行くか、どうか、市長は「実際に当たると仲々デリケートで難かしい」と市会で答弁していたが、某楼のA子を訪ねて接待婦になった動機、廃止されたらどうするのかなどを聞いてみた。
 A子は兄二人の三人兄妹、父は会社員で(母は)平和な中流家庭に育ち女学校も卒業、会社員と結婚し上海で生活していたが、夫は現地応召、消息不明のまま敗戦となり引き揚げた。その後夫は敗戦後、戦病死したことが判明したが、敗戦後であるため年金も未だに貰っていないという。
 兄二人も一人は戦死、一人は朝鮮で病死したので、父母がぜひ帰れと迎えに来たので、男の子二人を連れて実家に帰った。その時妊娠していたので間もなく分娩、男の子が三人になった。官庁勤務、保母など五年ほど勤めたが、子供の学費も嵩んでくるので、接待婦になる決心をして単身某楼に働かせてくれと頼んだ。
 事情を聞いた楼主は「働いてもらってもよいが、実際に働けるかどうか、二、三日様子を見ては‥」と言うことで、三日間客を取らなかったが、どうしても月に七、八千円では生活できないので思い切って接待婦になる決心をした。
  それから六年、A子も37才になったが子どもは大きくなった。長男は来年高校の機械科を卒業、次男が六年、三男は二年生になった。現在お母さんも七十三の老人だが、子供三人の家庭をよく守っている。接待婦に出ることを秘していた父も一昨年死亡。子供には家政婦をしていると言ってある。
 接待婦になった動機、転業の心構えを、A子は次のように語っていた。
「米もない、十円の金もない。子供の学費も要る。思い切って出てみた。思ったほど苦痛を感じなかった。こんな事ならもう少し早く決心したら早く楽になれたのにと思った。動機の一つに、私と同じような境遇の人が妾になり、男も三人ほどとった。子供が家に来る男の人毎晩違うといい、悩んだ子供は母親に反感を持って不良になった。同じことなら子供の判らぬ処でと、郡山で働く気になった。
 廃業になったら仕方がないが、長男の卒業と廃業が一緒なので負担は軽くなる。毎月二万円を送金しているが、これに近い収入があれば、今までに転業している。私たちも税金を払い鑑札を貰っているのだから悪い職業だとは思わない。もう少し続けられれば子供のことも十分してやれるのにと思う」。
 A子の場合は、一般とは一寸変わったケースであるが、こんな事情の人も少なくないと言う。「どんな苦労をしても堅気で‥」とは常識的な見方だが、A子が誤った道に入ったとは誰が言い切れるだろうか。
 ここにも戦争の傷出は大きかった。市長のデリケートだと言う言葉が、ここでも吾々の頭の中で渦を巻く。(昭和32年11月24日号)

 この記事の要点を以下に挙げる。
(1)売春防止法は接待婦の更正も目的の一つであった
(2)米も十円の金もない中で男児三人を育てる不安に比べ、接待婦の仕事は思ってたほど苦痛ではなかった
(3)妾になる道もあったが、子供のことを考え接待婦の道を選んだ
(4)接待婦として税金を払い鑑札を持つ政府公認の職業という自負がある
(5)同じくらいの収入が得られる仕事があれば、とっくに転業している


 このように、当時の接待婦を取り巻く状況や彼女たちの心境がよくわかる。



4.知っておいて欲しいこと

 明治の初め、性売買を行う女性は「牛馬に異らず」と例えられるなど(※牛馬きりほどき令、明治5年(1872)10月2日布告の娼妓解放令)の非人道的な待遇を受けていた。しかし、それから80年が経過した昭和32年当時、彼女たちは前借金に縛られた人身売買的な雇用形態ではなく、それぞれの自由意志によって働いているのだ。
 旧川本楼のガイド説明では、上のように時代によって変わっていく制度や女性への待遇、そして社会との関係性を無視し、前近代の「花魁や遊女」のイメージだけを当てはめようとしている。もちろん、時間的制限があるため全ての歴史をその場で語ることは難しい。しかし、考えるきっかけを持ってもらう場にすることはできる。そういった施設であってほしいと切に願う。


 以上、昭和32年11月の記事を紹介してきたが、次回は同じ時期に郡山で起きた事件を見ながら、当時の社会問題から見える赤線を紹介したい。

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【参考文献】
乾実『サンデー郡山より昭和三十年前後の郡山 下』サンデー郡山社 1979

※史料を公正な目で見ていただきたいので、内容は省略せず分割して引用する。
※ここで紹介する記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。



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