ニーチェ 「高貴な学校」
ニーチェが書いた『ツァラトゥストラかく語りき』は、比類なき書物です。
『反キリスト者 キリスト教への呪詛』などという本を書いたニーチェ自身が、世界宗教を望むはずがありませんが、もし世界の宗教を統一して一つの世界宗教を作るとするならば、この『ツァラトゥストラかく語りき』を正典にするのが相応しいでしょう。
しかし、正典ではないにしても、『ツァラトゥストラかく語りき』は「人類の教科書」として学校で教えるべき書物です。
シュタイナー教育、シュタイナー学校というものがありますが、ニーチェ教育、ニーチェ学校があっても良いでしょう。
ニーチェ学校は「貴族の学校」とも呼ばれ、「高貴で肯定的なタイプの人間」の育成を目的とします。
ニーチェ学校で学ぶ者は、豊かな知恵を授かり、偶像が破壊され、パラダイムシフトを経験することでしょう。
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いつかは、わたしの生き方、教え方を実践し、教育するような公共機関が必要となってくるだろう。
そうなれば、『ツァラトゥストラ』の解釈のためのおそらく特別の講座が設けられることだろう。
ニーチェ『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」
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この書(一八八六年)はすべての本質的な点において、近代性への批判である。
近代の科学、近代の芸術、そして近代の政治さえ除外されていない。
同時にこの書は、可能なかぎり近代的でない対立的典型を指し示している、
すなわち高貴な、肯定的なタイプの人間を。この後者の意味において、この書は貴族の学校である。
ニーチェ『この人を見よ』「善悪の彼岸」
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おお、わたしの兄弟たちよ、わたしは君たちを選んで、新しい貴族であれと命令する。
君たちは未来を生む者、未来を導き育てる者、未来の種をまく者にならねばならぬ。──
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「新旧の表12」
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見よ、わたしはいまわたしの知恵の過剰に飽きた、蜜蜂があまりに多くの蜜を集めたように。
わたしはわたしにさしのべられるもろもろの手を必要とする。 わたしはわたしの所有するものを贈り与え、分かち与えよう。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説1」
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わたしがいまここで絶対に予告しないであろうことは、人類を「改善する」ということだ。
わたしは新しい偶像を建てる者ではない。ただ古い偶像どもが、その粘土製の脚の値うちを思い知ればいいのだ。
偶像を転覆すること ── このことが、すでに前からわたしの職業なのだ。
手塚富雄訳『この人を見よ』「序言2」
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