至高の霊薬 ニーチェが調合した苦い薬
心の病は言葉の病です。心の病は自己と生を否定する言葉が原因です。自己と生を肯定する言葉を魂に浸透させることにより、心の病は快癒します。ニーチェの言葉はまさに自己や生を肯定するものです。
ただし、ニーチェは道徳家や聖人君子ではなく、神と悪魔の二つの顔を持つ存在であり、時には毒を含んだ表現もするため、拒絶反応を起こす人もいます。しかし、「良薬口に苦し」という諺があるように、ニーチェが調合した苦い薬(毒を含んだ言葉)がショック療法となり、病を癒す働きをするのです。ニーチェの過激な表現にはその意図があります。
また、心の病を治すには、その原理を知る必要があります。ニーチェの著作(特に『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』)を読むことで、心の病の原理も理解できます。その原理が理解されれば、回復の道筋も見えてきます。
ニーチェは仏陀を生理学者と呼び、彼の「宗教」をむしろ衛生学と呼んだ方が良いと言っていますが、ニーチェの「哲学」もまさに生理学や衛生学であり、ニーチェもまた仏陀と同じように社会や人間の病を癒す医者なのです。
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自己放棄の道徳は、終末への意志をあらわに見せている。それはその下心の底の底で生を否定している。
道徳の定義、道徳とは──生に復讐しようとする底意をもち──そしてそれに成功したデカダンたちの病的性癖である。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしは一個の運命であるのか7」
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従来一流の人間として尊敬されてきた人間たちを、いまこのわたしと比較してみれば、その相違は明々白々だ。わたしは、これらのいわゆる「一流ども」を、およそ人間の数にいれない──
彼らは、わたしにいわせれば人間のくず、病気と復讐本能の産物である。生に復讐をくわだてる、不吉な、根本において、救いようのない非人間ばかりだ──わたしは、その正反対でありたい。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなにも利発なのか10」
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肉体と大地を侮蔑し、この世ならぬものや救済の血を考案したのは、病人と死滅する者だった。
詩作し、神懸かりになる者たちのもとには、常に多くの病的な群れがいた。
小山修一訳『ツァラトゥストラはこう語った』「背後の世界を妄想する者」
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病者、老者、または死骸に出会うと、かれらはすぐに言う、「生は否定された」と。しかし否定されたのは、ただかれら自身である。生存のただ一つの面をしか見ないかれらの目、それが否定されただけである。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「死の説教者」
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死の説教者のなかには、魂の結核患者がいる。かれらは生まれるやいなや、早くも死のなかに足を踏みこみ、倦怠と諦念の教義にあこがれるのだ。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「死の説教者」
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人類がいままで真剣に考えてきたことどもは、現実どころではない、ただの想像で、もっときびしくいえば、それは 病的な、もっとも深い意味で害毒を流す人物たちの劣悪な本能から発した噓なのだ──
「神」、「霊魂」、「徳」、「罪」、「彼岸」、「真理」、「永遠の生」などの概念のすべてがそうだ。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなにも利発なのか10」
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人間が存在して以来、人間は余りにも僅かしか喜ばなかった。結局それだけが、我が兄弟、我我の原罪なのだ!
小山修一訳『ツァラトゥストラはこう語った』「同情者」
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「彼岸」とか「真の世界」とかの概念は現に存在する唯一の世界を無価値にするために──この地上の現実のための目標も、理性も、課題も一つとして残しておかないようにするために、発明されたものだ!
「霊魂」や「精神」、さらに「不滅の霊魂」といったような概念は、肉体を軽視し、それを病的に──「神聖に」──するために、
人生において真剣に扱うべき一切の事柄、すなわち栄養・住居・精神的健康法・病者の看護の仕方・清潔・天候などの諸問題にぞっとするような軽率な態度をもって対処するために、発明されたものだ!
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしは一個の運命であるのか8」
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自分をいつも労わってばかりいる者は、しまいには労わりすぎて病弱になる。苛酷を事とする者こそ、讃えられるべきだ。私が讃える国は──乳と蜜の流れる国などではない。
森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』「放浪者」
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一つの牧人なき畜群だ!誰もが同じものを欲しがり、誰もが平等。そう感じない者は自発的に精神病院に入って行く。
小山修一訳『ツァラトゥストラはこう語った』「ツァラトゥストラの序説」
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これらの余計な者どもを見るがいい。かれらは発明者たちの諸作品と賢者たちの数々の宝を盗んで、それをわがものとし、その窃盗を教養と名づけている。──しかもそれらの一切が、かれらの病気となり、わざわいとなるのだ。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「新しい偶像」
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私は、彼らの墓掘り人を、綿密に調べる研究者と呼んだ。──私はそう言葉を取り替えることを学んだ。
墓掘り人は、墓を掘っているうちに病気にかかる。古い瓦礫の下には、毒気がこもっている。泥沼を掘り起こすべきではない。山上で暮らすべきなのだ。
森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』「帰郷」
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それとは別種な我欲がある。あまりにも貧しく、飢えていて、つねに盗もうとする我欲である。病者の我欲、病める我欲である。
そういう我欲は、盗人の目ですべての輝くものを見る。飢餓の貪欲さで、ゆたかに食べている者に横目をつかう。そして贈り与える者の食卓のまわりをいつも忍び歩きする。
そういう欲望のうちにひそむものは、病気であり、目に見えぬ退化である。この我欲の盗人めいた貪欲さは、肉体に宿る生命力の病み衰えている証拠である。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「贈り与える徳」
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これら一切のものは私には、道徳的価値のみを認めようとするキリスト教の絶対的な意志と同様に、一つの「没落への意志」のありうるかぎりもっとも危険で、もっとも気味悪い形式だと思えた。
少なくとも生についての極度に深い病気・疲労・不機嫌・困憊・貧困の一徴候と思えた。
──なぜなら、道徳(とりわけキリスト教の道徳、つまり絶対的道徳)に照らして見れば、生は、本質的に非道徳であるがゆえに、絶えず、不可避的に不正だとされざるをえない。
浅井真男訳『ニーチェ全集第一巻』「悲劇の誕生」(白水社)p19
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最後に──これがもっとも恐るべきことだが──善人という概念においては、すべての弱者、病人、出来そこない、自分自身を悩みとしている者、つまり破滅してしかるべき一切のものが、支持され、
──淘汰の法則がはばまれ、誇りに充ちた出来のよい人間、肯定する人間、未来を確信し、未来を保証する人間に対する否定が、理想として祭りあげられ
──そういう立派な人間がいまや悪人と呼ばれることになる──しかもこれらのこと一切が道徳として信奉されたのだ!──このけがらわしいものを踏みくだけ!
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしは一個の運命であるのか8」
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病者の光学によってより健康な概念と価値を見わたし、さらにそれとは逆に、豊かな生命の充実と堅固さからデカダンス本能のひそかな作業を見下ろすこと──
これこそ、わたしがいちばん年季をいれた修業、わたしにとって真に経験といえる経験であり、もしわたしが何かの道で達人になりえたとするなら、まさにこの道においてなのである。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか1」
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わたしはわたしを自分でふたたび健康にした。これができるための条件は──どの生理学者も、承認するだろうが──根が健康であるということだ。
本質的に病弱な人間は、健康になることはできない、まして自分で自分を健康にすることはできない。
だが、本質的に健康な人間にとっては、逆に、病気であることが、生きること、より多量に生きることへの強力な刺激にさえなりうるのである。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか2」
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病気は強力な刺激剤である。ただ、ひとは病気にまけないほど十分健康でなければならない。
氷上英廣訳『ニーチェ全集第十二巻』(白水社)p34
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わたしは、健康への意志、生への意志から、わたしの哲学をつくり出した。
自己回復の本能が、わたしに、貧しさと小胆の哲学を禁じたのだ。
彼はすべてのことが彼のためになってこないわけにはいかないほどに、強健なのである。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか2」
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医者よ、自分自身の薬となれ。そうすれば汝の患者にも必ず薬となる。自分自らを健やかにする者を患者が肉眼で見ることこそ、医者の最善の助けなるべし。
小山修一訳『ツァラトゥストラはこう語った』「贈り与える徳」
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我我がもっと心豊かに喜ぶことを学べば、それが至高の霊薬となって、他人に苦痛を与えたり、苦痛の種を捻り出すことは忘れる。
小山修一訳『ツァラトゥストラはこう語った』「同情者」
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そもそも人間の出来のよさの目安は、根本的にはどこにあるのか?出来のよい人間はわれわれに快感を与える。出来のよい人間は、堅くもあるが、同時に弾力性をもって、よいにおいのする木で彫られているということ、これがその目安である。
彼が美味と感じるのは、彼の健康に役立つものだけである。彼の満足、彼の食欲は、健康に役立つ限度が踏み超えられると消失する。
傷を受けると、彼はその治癒の薬を感じ当てる。彼は都合のわるい偶然事をおのれの利益になるように利用する。要するに、彼に死をもたらすものでないかぎり、彼を強化するのである。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか2」
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ツァラトゥストラは病人には慈悲深い。真に、彼らの慰安と忘恩の流儀に腹は立てない。願わくは、彼らが快癒する者、克服する者となり、より上等な肉体を創って欲しい!
我が兄弟、耳を澄ますのならば、健やかな肉体の声を聞くがいい。これこそ、病魔に魅入られた肉体とは正反対の正直で純粋な声なのだ。
小山修一訳『ツァラトゥストラはこう語った』「背後の世界を妄想する者」
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汝には、より尊貴なる肉体を創造することを望む。最初の動き、自ら回る法輪、── 一人の創造者を汝は創造しなければならぬ。
小山修一訳『ツァラトゥストラはこう語った』「子供と結婚」
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無数の前人未到の小径が存在する。無数の健康と無数の隠れた生命の安全地帯が存在する。依然として、人間と人間の大地は極め尽されておらず、未発見のままである。
小山修一訳『ツァラトゥストラはこう語った』「贈り与える徳」
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怨恨は病人にとって御法度そのもの──彼の悪であり、困ったことには、彼のもっとも自然な性向でもあるのだ。
このことを理解していたのが、あの深遠な生理学者仏陀である。彼の「宗教」は、むしろ一種の衛生学と呼んだほうが、キリスト教などのような哀れむべきものとの混同を避けるためによいのだが、その教えは、怨恨の克服ということをその功徳の基としている。
魂を怨恨から解放すること──これが快癒への第一歩である。「敵意によって敵意はやまず、友愛によって敵意はやむ」これが、仏陀がまっさきに教えることだが──こう語っているのは道徳ではなく、生理学である。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか6」
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