マガジンのカバー画像

ニーチェ霊解

69
運営しているクリエイター

2024年4月の記事一覧

ニーチェ「完全な読者の像」

ニーチェ「完全な読者の像」

哲学者は、主に同業者を相手に論文を書いているため、文章が難解なのは仕方がありません。一方で、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は万人向けに書かれているため、文章が非常にわかりやすいです。

しかし、表現がわかりやすいからといって、ニーチェの真意を理解できるかというと、それはまた別の問題です。ニーチェ自身も「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」とサブタイトルに付けています。

では、誰がニーチェの著

もっとみる
ニーチェ 「この世にある最高の書」

ニーチェ 「この世にある最高の書」

『ツァラトゥストラ』がニーチェの主著であり、彼の哲学がすべて込められています。

『ツァラトゥストラ』を読むことでニーチェの哲学を理解できますが、さらに深く理解したい場合は、『ツァラトゥストラ』の前後に書かれた著作も読むと良いでしょう。

それらはすべて『ツァラトゥストラ』の解説書となっています。特に『この人を見よ』は重要で、ニーチェ自身が『ツァラトゥストラ』を解説しています。

『ツァラトゥスト

もっとみる
ニーチェ 「幻の主著」

ニーチェ 「幻の主著」

ニーチェは『ツァラトゥストラ』を理論的に補完する別の主著を執筆する計画を立てていました。最初は『力への意志』というタイトルを考えていましたが、後に『一切価値の転換』に変更しました。

『一切価値の転換』は未完成のまま幻の主著となりましたが、ニーチェは完成に強いこだわりを持っていたので、もし長生きしていれば完成させていたことでしょう(一方で、体系化に対する反感も持ち合わせていました)。

『一切価値

もっとみる
ニーチェ 「悪意と哄笑」

ニーチェ 「悪意と哄笑」

ニーチェは聖人君子ではなく、神と悪魔の両方の顔を持った存在です。高所から下界を見下ろし、賎民たちに対して悪意ある笑いを投げかけることもあります。このようなニーチェの人間性を知っておくことは、彼の思想を理解する上で必要です。

───────────

この頂で笑え。笑え!わたしの明るい、健やかな悪意よ。高山からおまえのきらめく嘲弄の哄笑を投げおろせ。おまえのきらめきで、最も美しい人間魚を釣り上げよ

もっとみる
ニーチェ 「子供の哲学・遊びの哲学」

ニーチェ 「子供の哲学・遊びの哲学」

ニーチェの哲学は子どもの哲学であり、遊びの哲学です。子どもは遊びを創造するのが得意で、楽しいことが大好きです。

一方で、大人は楽しさよりも義務を優先してしまう傾向があります。これが人生をつまらなくしている原因です。大人も楽しさを追求し、遊びを創造すべきです。

遊びに夢中になっているときは時間を忘れます。永遠の中にいます。一方で、義務を行っているときは時間を気にします。進まない時間の中にいます。

もっとみる
ニーチェ 「無垢・無邪気」

ニーチェ 「無垢・無邪気」

ニーチェ哲学の解説書では、神の死、超人、永遠回帰、力への意志などがよく取り上げられますが、「悪意においてさえ無邪気である」子どもが、ニーチェが辿り着いた最高の境地です。

───────────

小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。

創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれ

もっとみる
ニーチェ 「血で書かれた言葉」

ニーチェ 「血で書かれた言葉」

「わたしは、古い語り口に飽きた」
「新しいことばがわたしに湧く」
「自分自身の烈火のなかから、自分自身の教えが生まれてくる」

ニーチェは、自身の烈火の中から生まれた新しい言葉を新しい語り口で語ります。

彼は、古い語り口で、自分以外の哲学者の解釈をするだけの哲学者とは全く異なります。

彼の言葉は暗唱されるに相応しいものです。

───────────

新しい道を私は進んでゆく。新しい語りが私

もっとみる
ニーチェ 『ツァラトゥストラ』の邦訳

ニーチェ 『ツァラトゥストラ』の邦訳

ニーチェの『ツァラトゥストラ』には、16もの邦訳がありますが、ベストなものはなく、それぞれに長所があります。比較しながら読むことで理解が深まります。

1.生田長江訳『ツァラトゥストラ』新潮社、1911年
2.加藤一夫訳『ツァラトゥストラは斯く語る』春秋社、1929年
3.登張竹風訳『如是説法 ツァラトゥストラー』山本書店、1935年
4.竹山道雄訳『ツアラトストラかく語りき』弘文堂書房、19

もっとみる
ニーチェ 「ツァラトゥストラと森の聖者」

ニーチェ 「ツァラトゥストラと森の聖者」

ツァラトゥストラも森の聖者と同じように、歌を歌い、笑い、泣き、呟きますが、森の聖者と決定的に違うところがあります。

それは、森の聖者は神を讃美していましたが、ツァラトゥストラは神を否定しました。

森の聖者は神に依存していましたが、ツァラトゥストラは完全に自立していました。

同じ孤独な人生でも、依存している人と自立している人の思考や行動は全く異なる方向に発展していきます。

また、森の聖者は「

もっとみる
ニーチェ 「趣味の問題」

ニーチェ 「趣味の問題」

・生きるとは、趣味や味覚をめぐって争うことなのだ。
・よい趣味でも、悪い趣味でもない。ただわたしの趣味なのだ。

ニーチェが好きな人は好きであり、嫌いな人は嫌いです。これは「趣味」の問題です。

ニーチェと感性や直感、思考回路が似ている人はニーチェの言葉が理解でき、共感できますが、ニーチェと真逆のセンスを持っている人は、ニーチェの趣味を悪趣味と感じるでしょう。

ニーチェにとっては「善悪」よりも「

もっとみる
ニーチェ「栄養と土地の問題」

ニーチェ「栄養と土地の問題」

何を食べるか、どこに住むかという問題は、哲学者や神学者のどんな骨董的問題よりも、人類の幸福に関わる重要な問題です。

───────────

これとはまったく別にわたしの関心をひく問題がある。その問題は、神学者のどんな骨董的問題より「人類の幸福」にかかわりがあるのだ、すなわち栄養の問題だ。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなにも利発なのか1」

───────────

実際わたしは

もっとみる
「ニーチェ教」の設立

「ニーチェ教」の設立

ニーチェは崇拝や信者を求めていません。そもそも、偶像を破壊することがニーチェの使命なので、自身が偶像になることはありません。

ニーチェは偶像を破壊するダイナマイトです。崇められることを喜ぶ政治家や学者、宗教家とは大きく異なります。

ニーチェは教祖や聖人、予言者に祭り上げられることを恐れました。

ニーチェが求めていたのは、意のままにできる意志を持たない信者ではなく、獅子の意志を持った、目指す場

もっとみる