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楽しいことは悪いことなのか

元旦はお休み。1年の計は元旦にあり、とすればなにもしないことを1年の計にしたのが正しく機能した結果だとおもう。

とはいえ、新年早々重たいテーマからスタートしてみたくなったので思索をはじめてみます。結局、楽しいことをしていると、「それはだれかの不幸の上で成り立っている」ということを言われ続けていました。例えばご飯に生卵をかけて食べようとするだけで「(父親が)子供の頃には、姉さんと一つの卵を分け合って、俺は白身しかたべれなかった。その年で卵がひとつ食べらえるというのは、俺が我慢した不幸の上に成り立っている」と言われてしまう。

いやだからなんだと言われても、考えてみたら「楽しいことをしてるようにみるとそこに悪意を見出さないといけない」という認知をして、それを早くださないと、自分が叩き潰される環境でサバイブした結果ではないかとおもう。わたしが絵を書くのも、「クソみたいな絵を描くということは紙を無駄に(以下ご想像にお任せ)」といわれたので描けなくなったということを思い出したりした。

子供が楽しいことをしていると、そこに対して悪意を見出して叩き潰さないと、次は自分が叩かれるとおもってしまうという恐怖に動かされている。外からみると「怒っている」といわれるけど、そこに対して先行する認知が存在している。それが「ないところに悪意を見出す」ということである。アドラーのロジックでいえば、ライフタスクが発生して、劣等感を感じて、陰性感情を〜なんだけど、ライフタスクの根源となる私的感覚は実は自分の望んでいる私的感覚ではないといえる。これが一番の問題なのかもしれない。

まあ、99.998%ぐらい子供の行動は怒るべきことじゃない。楽しいんだからそのままほっておけばいいはなしである。もしも残りの0.002%だとしても、怒る必要はなくてまずは話を聞けばいってことで今年の最初の投稿にしたいとおもいます。

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