博多の森球技場建設までの歴史

アビスパ福岡が現在、試合会場として使っているのは博多の森球技場である。建設されるまでの歴史を簡単にたどってみたい。

博多の森球技場のある東平尾公園は、敷地面積94.4haの総合公園として福岡空港の東側に隣接した月隈丘陵地の一角に位置している。1945年の敗戦時に席田飛行場(現在の福岡空港)と共に接収された土地であった。
1972年に空港と共に返還された後、1975年の都市計画決定で総合公園として3つの基本方針を元に整備されることとなった。その3つを合わせてまとめると「緑の環境が守られた自然緑地を保存しながらも、同時に市民の日常スポーツ活動から国際大会大会まで開催可能なスポーツ施設、日常利用できるレクリエーション施設の創設」に主眼が置かれていた。その方針を元に公園内は整備されていくが、その整備時期は大きく3つに分けられる。

第1期(1975年~1983年)では、主にレクリエーション施設の整備であり、第2期(1983~1990)は、1990年開催の「とびうめ国体」に向けたスポーツ施設の拡充期で、ここで博多の森陸上競技場、テニス競技場、県立総合プールなどが建設されている。博多の森球技場が建設されたのは、ユニバ-シアード福岡大会に向けた施設の拡充期である第3期(1991-1995)である。

ユニバ福岡は1989年に開催が決定された。開催必須種目にサッカー競技が入っていたため、新設されることになったのが博多の森球技場である。まずは1990年12月に建設地が東平尾公園の球技場区域(約4ha)の一角に決定された。具体的には、第2野球場、東平尾球技場(1981年9月開場)を潰してユニバ用の新球技場を建設することにしたのである。
設計に当たっては、日本サッカー協会編集の「サッカースタジアム建設のための指針(1991年7月)」を基準にし1987年完成の長居球技場(2万人:大改築前の)などを参考にして1991年9月に基本計画が設定された。
メイン&バックの両スタンドに屋根が付くのは日本で初めてで、サッカーの他にラグビー、アメリカンフットボールの国際試合にも対応可能な球技場であった。観客収容数は2万人、規模としては秩父宮ラグビー場(3万人)、神戸中央球場(2.2万人)に次ぎ長居球技場(2万人)と並ぶ全国3番目の施設であった。特に屋根は東京ドーム(1988年3月開場:当時は最新鋭の野球スタジアムであった)と同様の合成皮膜であるテフロン膜を採用するという計画であった。
基本計画時点では、日本で最先端の球技場であったのだ。ただし、Jリーグ(1993年開幕)というプロサッカーが存在しない1991年に出来た基本計画であった。

博多の森球技場は1992年9月から工事に着手し本体が完成したのが1994年10月だった。本体は完成したのだが、日本サッカー協会の「サッカースタジアム基準」が1994年1月に改定されていた。完成した時点でのサイドスタンド席(ゴール裏)は芝生席だったのだが、それではアビスパ福岡(当時は福岡ブルックス)のJリーグ準加盟が認められないという問題が起こったのだ。しかし、ここでも福岡市の対応は早く工事費1.5億で芝生席をスタンド席に変更。その他、駐車場などの周辺工事も含め1995年7月に博多の森球技場は完成することとなる。

博多の森球技場概要(1995年完成時)

建築面積:1万3,934㎡
延床面積:2万2,837㎡
高さ:28m
フィールド面積:1万1,520㎡(144mx80m)
収容人数:22,563人
・メインスタンド:7,073人
・バックスタンド:9,094人
・サイドスタンド:6,396人

このように完成した当時の博多の森球技場は、間違いなく日本で最先端の球技場であった。だが、基本計画制定時(1991年)には想定していなかった問題が明らかになっていくのである。

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