鉄野昌弘先生ゲスト回「みんな大好き♡大伴旅人」インスタライブ内容まとめ
先日のインスタライブの内容を、
高岡市万葉歴史館の公式キャラクター家持くんの
中の御方が、テキストに纏めてくださり!!!
めちゃんこ分かりやすかったので
シェアしますー!!!
鉄野先生にとっての大伴旅人の魅力とは?
名門の生まれで仕事もできた人。
残っている歌は60代になってから、若いころの歌はない。
だから、貫禄がある。
三位以上の状態だから、だから好きなようにうたう。
何度でも同じようにうたう。
忖度がない。
満足するまでうたう。
その中に自然と教養がにじみ出てしまう。
見せようとしているわけではなく、自然体の良さが旅人の歌にはある。
途中から、政治的に敗北してからは、ある種戦略的に歌を使っていくという面もあって、藤原氏は漢詩に強い。
漢詩は表芸、レベルの高い文芸とされていた。
それに対して和歌は、長歌は儀礼の歌、短歌は私的な歌。
古今和歌集の仮名序で、紀貫之が嘆いている。
それは、旅人以前の万葉集にもそうしたところがある。そもそも儀礼の歌として和歌はあったが、それ以外は恋の歌くらいであった。
そうしたなか、和歌というものを使って、自分の志をうたったのが、大伴旅人、そして山上憶良である。
旅人の若い時の歌が残っていないのはどうして?
懐風藻に旅人の歌は残っている。
雪と梅を詠んだ詩。
おそらく若いころの詩。
大宰府に行くというのが政治的に敗北なわけで、その頃になると漢詩よりも和歌になっていく。
もし、旅人が若いころに歌を詠んでいたとしたらどんな歌に?
神亀元年に聖武天皇が即位したときの吉野での作が長歌であるが、そういう儀礼の歌は、山部赤人のような身分の低い人が作るもので、中納言だった旅人が作るような歌というのは変なことで、披露されていない。
柿本人麻呂などが作っていた古い歌を自分が引き継ごうとしていた。
天武持統朝に華やかだった時代を引き継ごうと意識的に歌ってみたもの。
若いころに歌をつくっていたとしたら、相聞歌であろう。丹生女王(にうのおおきみ)と交流があったようだが、恋歌があったかもしれない(笑)。
そして、大伴家持は、父親旅人の恋歌をトリミングして載せなかったのかもしれない(笑)。
それなりの歌は残していたと思うが。
60歳を超えてからの恋歌は軽妙洒脱だから載せているのかもしれない。
旅人の奥さん、大伴家持のお母さんは?
家持のお母さんは大宰府で亡くなった大伴郎女ではないと一般的にはされている。
事実は結局わからないと最初に断わったうえでの話として聞いてほしい。
大伴家持のお母さんが亡くなったので喪に服して仕事を休んでいることが記事になっている。
天応元年(782)大伴家持は64歳。
そうするとその年までお母さんが生きていたということになる。
ただ、その亡くなった母というのは義理の母と考えれば、神亀5年になくなった大伴郎女が大伴家持の実母という考え方もできる。
大伴郎女が亡くなった時、旅人は繰り返し非常に悲しむ。旅人が亡くなった時に大伴家持はまだ14歳で、その下に弟と妹がいる。
年若い妻、40代ぐらいまでということになるだろう。
旅人に比べるとだいぶ若いが、大伴郎女以外に、「誰が手本をかわが枕かむ」(巻三・439)、誰の腕を私は枕にしようか、とうたえるような若い妻がいるというのは、どうなんだろうかと思う。
旅人は好きなように歌うので、本心でないことは歌わない。
だから、大伴郎女が大伴家持のお母さんでもいいのではないか。
坂上郎女が大伴郎女がなくなったことを受けて九州に下るが、当時坂上郎女も旦那さんが亡くなったので、九州に下ったというのは旅人の妻ということになったのではないだろうかと思う。
そもそも坂上郎女が結婚していたのは旅人の弟だから。
家持が越中で病気をすたときに、家族のことを思い出す。
お母さんは、妻は、子供はとうたう。
妻は坂上大嬢で、大嬢と同居しているその母なので坂上郎女となる。
もちろん、題詞などでは「叔母」と書くのでそのあたりは微妙ではある。
そこらへんは、歴史家の意見を聞いていないのでわからないが、そう思っている。
旅人は子どもの歌は詠まないの?旅人は大伴家持をどう思っていたの?逆は?親子関係は?
家持は旅人が年をとってからの子。
50代の子。
ようやくできた跡継ぎということ。
それは大事な子どもだった。
だから九州につれていく。
それとそれを歌にうたうか、というのはまた別の問題。
和歌のテーマというのは、儀礼や旅の歌、相聞歌なので、子どもをうたうという習慣がない。
憶良が子どもを歌うというのは、憶良がつくりだしたテーマ。
巻五の嘉摩三部作で家族というものを取り上げていく。
妻子を捨ててしまう男を説教する歌、そのあとで、子等を思う歌。
憶良が生きることとは何なんだというテーマを作り出した時に、生まれたのが子ども歌。
それまでは、赤ん坊を残して死んだというような、妻を悼む歌はあったが、それまではなかった。
それは中国でもメインテーマではなかったが、陶淵明が子どもに関する「責子」(こをせむ)という詩がある。
お前らは出来が悪いと嘆く詩、勉強もせずに食ってばっかり、みたいな(笑)。
陶淵明は面白い詩人で、生活の中で人生を模索する。
後世非常にもてはやされる詩人で、万葉時代にもよく知られた詩人だと思う。
憶良はそのテーマをひきとってい形跡があると思う。
そこから、子ども、というものが和歌の素材になった。
防人の歌には子どもがいっぱい出てくるが、親も子どもも出てくるのは、やっぱり憶良の歌の影響があるだろうと、思う。
私は、防人には歌うためのテキストがあったと思っている。
防人になって歌を歌うようになった、だから、手本というものがおそらくあって、その手本には憶良的なテーマが盛り込まれていた。
歌垣の歌は、別に和歌ではない。
防人の歌は、引率係がいてそれが集めたもの。
防人は兵士なので、公の組織の末端にいる人、普段は各国の軍団にいる。
その中から選ばれて防人になる。
軍団に勤めている兵士というのは、徴発されたパートタイマーの公務員で交代で務めている。
純粋な農民ではない。
今の核家族とは違うので、防人に行かなくなった時点で家族が路頭に迷うわけではない。
戦中、防人歌がもてはやされたが、戦中の赤紙一つで突然徴兵されるのとは事情が違う。
子どもを読むというのは、旅人の和歌のテーマではなかった。
古代は母子の関係が強い。
坂上郎女は、娘のことも大伴家持のことも歌う。
旅人はどういうスタンスで中国文学を読んでいたのか?
まず漢字読めなければ役人にはなれない。
辞書なんかもつかっていて、あらゆる文書を読んで漢字を身に着ける。
四書五経、文学の歴史書といえる文選。
必須の教養である。
うんと偉くなると聞いているだけでいいが、実務をするうちは、そうした漢籍の知識が必要。
好きで読むというよりかは、必要なもの。
日本には科挙は入らなかったが、それでも文書で行政をしていく7世紀だから、一生懸命勉強したと思う。
憶良は無名の氏族の人で中国に行った完全に勉強で身を立てた人。
旅人は貴族だから勉強しなくても偉くなれたかもしれないが、若いうちから抜擢されているから能力が高かった。
旅人は大納言の息子だから、スタートが蔭位で六位とかからはじまる。
それが日本の門閥の官僚制の特徴。
憶良は五位で終わったが、地位のわりには尊敬を集めていた私淑されていた人。
中国に行った人だから。
憶良がイケメンだったかはどうかは知らないけど(笑)
石上堅魚「ほととぎす 来鳴きとよもす 卯の花の 共にや来しと 問はましものを(巻八・一四七二)」について
寓意はないと思っている。
ほとどきすになりかわって自分の心境を詠んでいる。
橘が散ってしまったことを悲しんでいる。
どちらも霍公鳥と取り合わせにする歌。
私事なので妻が亡くなったことをストレートには詠まない。
潘岳「悼亡詩」は文選にのっている非常に有名な作品で、亡妻詩のもととなっている詩。
早く妻の死を忘れたい、仕事に帰りたいと最後に述べる、それが官僚としてのあるべき姿。
だから、悲しんでばかりです、と自分のこととしては歌えない。
だから、堅魚の歌への返歌も霍公鳥になりかわって歌を詠む形をとる。
なぜ防人歌を天皇が集めたいと思ったか?
それは忠誠の誓い。
こんなに苦労して来たということを言い立てることが忠誠の誓いとなる。
「いやだ」「早く帰りたい」とは言わない。
つらい思いをして出てきたとはうたう。
大伴家持は防人に同情して作ったりしているが。一首だけ防人に指名した人を恨んだ歌がある。
万葉集の歌の旋律が、どこかに残っていたりしませんか?
万葉集ではないのだけど、琴歌譜というものがあって、この成立は平安時代はじめくらいで、岩波書店の日本古典文学大系の「古代歌謡集」に入っている。
歌詞があって、歌詞とは別に譜面が残っている。
こんな風にうたうという。
あー---と、ものすごくひき伸ばしたり、繰り返したりたりしてうたっている。メロディは全然わからないけれど。
節に合わせてうたうのと、音数律57577とはあまり関係ない。
字余りも原則的に母音がはいらなければ、字余りにならない。
1・3・5句は母音が入らなければ字余りにならない、2・4句は母音が入っていても字余りにならないケースが多い、という字余りの研究があります。
大伴家持もその弟も妹も息子も、もちろん旅人もイケメンですよね?
今の基準でイケメンだかどうかわからない。
今の基準でいうと太メンなのでは。
大伴家持は痩せている人を揶揄っている歌があるので、太目だったかもしれない。
インドでも映画スターは太目。
そっちの世界に近いのでは。
旅人はタフ、丈夫です。
真夏に九州に何か月も戦ってにいって、それが終わると東国にいっている。
年とると大宰府で病気になって京から親戚を呼び寄せたりしているが、治っている。
持ち直したか、もともと大したことがなかったかは、わからないが。
でも、田主ほどイケメンではなかった(笑)。
おわりに
ラジオやってまして、今日も5時から流れると思いますが、第1回を聞いたら早口だったので反省してます。原稿が長すぎた(笑)。
加賀見幸子さんの朗読を中心に考えているので、時間を守るために原稿を読んでます。
原稿を読むのは難しい。
こうやってしゃべるのと違いますね。
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