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独立した道徳について

 お久しぶりです。猶興会会長の東岳です。今回は道徳の意義、特に独立した道徳についてお話します。
 道徳…これを聞いておそらく多くのひとは、つまらない、堅苦しいことをと思うだろうと思います。
 小学校でも道徳の授業というものがありますね。人としてよいことを教えてはいるのですが、今一心に響かない。つまらないものであると思われるでしょう。これは私もそう思わざるを得ません。
 何故かというと、人から教わる、強いられる道徳は真の道徳ではないからです。本来の道徳…これは自己の内面から発する感情的なものです。人を助けたいとか、親を大事にしたいとか、文化や宗教によって言葉は違っても本質は必ず一致します。
 道徳の代表として、我が国でも古くから重んじられてきた、仁、忠、孝などの儒教的徳目がありますが、これもその表面を学ぶだけではつまらないものです。だから昔も腐れ儒者といって馬鹿にするひともいました。 
 しかし、道徳が社会に不可欠なことも事実であります。道徳なき人間は禽獣に等しく、道徳によって人間は社会に秩序をもたらしているのです。故に昔は学問として、道徳を根幹にすえた儒学などを中心として学びました。
 
 そうするとどうなるか、道徳の本質というものを深く考えた結果、自己の内面から発する道徳の本質に向き合うことになります。 
 お上からいわれることや、世間にはびこる正しいとされる道徳やらが、自分本来の内面的な道徳と違うことにも気が付きます。この自分本来の道徳、これを独立的道徳と呼びましょう。
 独立的道徳の自覚こそが、本当の自己の目覚めであり、自由な生き方への第一歩です。
 江戸時代の知識階級というのは、道徳を学ぶからこそ、この独立的道徳によって、逆に割合自由に生きていたと思います。
 幕末に国家が不安定になったとき、全国で脱藩が相次いで彼らは志士となりました。これは藩や家という彼らをとりまく世間からすれば、本当にあり得ない大罪であり、武士という名誉ある立場も失う恐ろしいことになります。
 ではなぜそんなことを、家柄のよい知識階級がすすんでやったか。それは彼らが、世間とはまるで違う自己の信念というべき、はっきりした道徳を持っていたからでしょう。彼らの独立的道徳は、自分の世間体や家よりも、日本という国家のために生きるべきだと判断したのです。そして彼らによって日本は近代化を果たし、欧米列強による植民地支配を免れたと私は思います。
 
 自衛官として公に仕えて生きた私が言えたことではないかもしれませんが、現代日本人は道徳を深く学ばないために、こうした自由精神ともいうべき、独立した道徳心を持っていないように思います。
 何をいうか、東日本大震災などであんなに秩序的だったのは、全員に道徳があったからではないか、そういう人もいるかもしれません。
 しかし私見では、単なる見栄、世間体の延長ではないかと思わざるをえません。確かに日本人は人前では大人しくて、本当にいい人ばかりです。けれどネットなどを見ればどうでしょう。誹謗中傷が溢れたこれによって自殺などに追い込まれるひとまで出る。
 
 つまり現代日本人は、人目がないところでは全く道徳的ではなく、世間の目の中では、世間の道徳に従うことを絶対として異端者を排除する、全く卑怯な国民なのです。
 
古い時代劇映画ですが、眠狂四郎無頼剣という映画があります。狂四郎の市川雷蔵と、大塩平八郎の残党である天知茂がたたかう、非常に見所のある映画です。
 私はこの映画のクライマックスの、狂四郎のスタンスが非常に好きですね。大塩残党の天知茂は、江戸に火を放ち町は火に包まれます。その途中屋根の上で反乱を止めにきた狂四郎と戦うのですが、
「城を焼くならば焼け、大名屋敷も焼きたくば焼け。しかしこの火に焼け出されて生活を失う市民をどうするのだ」
と狂四郎は怒ります。これはいい台詞ですね。単に幕府という権力側に追従して、世間の道徳に従っての怒りではなく、また理想のために手段を選ばない革命家達に同調するでもない。ただ自己の内面から発する道徳、無辜の市民を大事にしたい、という純粋な感情に従った立場故の怒りの言葉でしょう。

これは映画ですが、私は日本人が皆こうした独立的道徳を持って欲しい。今の様に阿附迎合の道徳ではなく、本当の道徳です。
 そして万人の独立的道徳が、純粋に国家を思って生き、行動したとき、日本は必ずよくなる。
 そして、皆の自立した道徳が心から大事にしたいと思える日本にしたいのです。


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