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『日没』を読んだ

とんだ話だ。扉を開けたらトロッコに乗せられて、あれよあれよととんでもない末路に連行されてしまった。
一昨日、寝る前に読み始めたらページを繰る手を止められなくて、一気に3分の2まで読み進めてしまった。本を読んで寝落ちしかけたのはいつ以来だろう。
「桐野夏生の『日没』がすごい」
そんなツイートが気になって仕方なくなったのは半年ほど前だったか。初版が発売されて3ヶ月も過ぎていたのか。折々見かけるので図書館で予約したのはひと月ほど前。人気があるらしく、順番待ちの列に並んだ形だ。予約したことをすっかり忘れた10日ほど前に「予約された本がご用意できました」とメールが来た。すぐに取りに行ったくせにそのままテーブルに置きっぱなしにして、毎朝毎晩、表紙を眺めた。その行為にはあまり意味はない。他にも借りた本があったので最後に読もうと思っただけ。大事に読もうと思っただけなのに、読み始めたら止まらなかった。
残りの3分の1を読み終えたのは昨日の夕方。休憩がてらちょっとだけ読むか、と思ったのが大間違い。そこまで一気に行った作品を、ちょっとで済ませられるはずないじゃないか。読み終えてから24時間超え。仕事の合間にも、帰り道のふとした瞬間にも、『日没』のことを考えている。

主人公の「私」はマッツ夢井というペンネームの小説家。彼女の書く作品はエンタメ小説に分類されるらしい。冒頭、彼女の日常に小さな亀裂が入る。その亀裂はほんの兆しで、それがすぐに大きく広がり、「私」の足元=日常が崩れていく。
私は「私」に共感したのだろうか。弟がいること、お母さんが認知症になったこと、お父さんを随分前に亡くしていること、その弟が舞台美術の仕事をしている点はかすかに私自身に重なる。私には弟がいるし、父は随分前に亡くなったし、母は認知症が始まったようなフシがあるし、私は舞台スタッフの仕事に従事している。重なる。でも共感とは違うような気もする。ただ、彼女の身に起きていることは、私自身に降りかかることはないだろうけれど、なんていうか、似たようなことを知っている気がしたのだ。自分の想いが置いてきぼりにされて、なにか大きなことにこれまでの日常を奪われる感覚。それまで自分が生業と思ってきたことが、仕事そのものと無関係に止められてしまって、どうにもこうにも身動きが取れなくなる恐怖。
そうか。去年の最初の緊急事態宣言のときと重なるのか? あのときの、いつ終わるとも知れなかったの絶望感と。

「私」は彼女の作品が害悪だと決めつけられ、矯正することを強制される。日常と断絶させられたあと、彼女が接触するのは恐ろしい人間たちだ。誰が敵で、誰が味方か。それも判別し難い。最前線で向かってくるのは、モラハラ・パワハラの悪魔だ。「私」が真綿に包んだ悪意をぶつけられる度、あからさまな悪意や暴力をぶつけられる度に、私自身もダメージを食らう。腹が立つし、歯ぎしりする。「私」が反撃すれば気が晴れる。反撃のあとにはもっと悪いことが待っているのだけれど。

食事もひどかった。「私」が堕ちた場所ではクソマズい食事しか与えられない。もっと悪いことに、「私」の他の収容者が問題を起こせば、昼食が抜かれる。クソマズい上に栄養状態も最悪な食事が日々の愉しみになってしまっただけでも胸が痛むのに、そのささやかな希望が省かれるって。しかも理由が連帯責任。顔を合わせることも、言葉をかわすことも許されない同胞との連帯責任。責任ってなんだよ? これもまた腹が立つ。
「私」は美味しいもの、好きな食べ物を想像する。想像の世界で元いた場所での自由に想いを馳せる。
私が最も共感したのはここだと思う。私は食べることが好きで、40歳を過ぎた頃から「人生に残された食事を大事にしなければ」と思っている。食べられる量が減っているから、食事を都度都度大事にできないと悔しい気持ちになる。明日なにを食べるか、そのためにどう動くかが最重要案件になりがちだ。自分の望みとは程遠い上に美味しいと思えないものを食べる羽目になると、やる気も失せるし、テンションも下がりまくる。自分が食べたい美味しいものを食べるためにも認知症になりたくないとさえ思う。

きっとこの作品には、読む人それぞれの日常から派生する「起きたら嫌なこと」が散りばめられているように思う。私の場合は仕事と食事を奪われることだったが、違う生き方をしていたら関わることを許された対立する人間たちから受ける悪意に激しく反応してしまうかもしれない。単に日常との断絶に抵抗したくなる人もいるかも知れない。読む人の土壌がどうであれ、感応してしまうエピソードがてんこ盛りなのだと思う。
そしてすべてが予想外。
Twitterでこの作品を知ったときには、こんな展開も結末も想像していなかった。
こんなに傷めつけられるおはなしだったなんて。
傷めつけられるのに止められない、嫌だと感じるのに読むことをやめられない。いや、やめたくない。そんなふうに思ってしまうなんて。なんて恐いお話だろう。

著者の意図は完全にわかることはできない。でも、2021年の今、これまでの歴史、ここから先の未来も含めて、人が恐いと思う未来に繋がっているように思う。自身より大きな、抗うことが困難な対象に弾圧や断絶されることへの畏れと、自由が奪われることへの畏れ、それがもたらす最悪な事態への恐怖に。

私はヒーローが好きだ。だからこの話を読み進めている間も、ヒーローが「私」を生き続けるという意味で救い出してくれることを望んだ。どう考えてもヒーローは現れないとしか思えないのに。一瞬、望みはあった。でも違った。私が望んだ形では。

ここまで書いてきて改めて思うのは、作者のリードに見事に結末まで連行されたのだということ。思うツボ。
もう一度読み返すべきかも。いや、もう1回読みたい。伏線全部回収してるじゃんと思っていたけど、回収されてないことが1つあるんだよなあ……。読み返したら、違う印象になる気もする。

そういう意味でも恐いお話だと思う。要所要所、恐いし、腹立つし、モノ投げたくなるし、「私」に共感しすぎるから、読み返したらいけない気もするけど、もしまた扉を開いたら、ニヤニヤしながら読んでしまうかも、とも思う。
一人称の小説って謎が解消されないからモヤモヤするよね。

このお話は映像化できないと思う、いろんな意味で。でも読み始めたらやめられないし、脳内に絵が浮かぶはず。読まなかったらもったいない。文字で読むべき。


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