ミニマリスト(を目指すの)をやめた理由

こんなにミニマリストという言葉を聞くちょっと前くらいに、私はたぶんかなりミニマリストよりの生活をしていた。

そもそもシェアハウスで数年住んで、その後一人暮らしに移っても、誰かとルームシェアしても、東京と地方を行ったり来たりになっても、まあまあミニマムだったと思う。
でも意識的にミニマリスト的になったのは、やはり、震災後に読んでいたドミニク・ローホー氏の著書の影響がすごいあった。

フランス人で日本の禅思想などを研究していた女性で、学者っぽさと骨のある行動力と、その他もろもろまねのできないような強さと覚悟が満ちている内容だった。

中学生くらいからトランクひとつでの生活っていうのにはとても憧れがあった。たぶん、その時の生活があまりに苦しかったせいだろうと思う。

どこかに行きたい訳じゃない。移動が好きなわけでもない。
ただもう少し身軽になりたかった、程度の事で。

そんな事で、私は炊飯器なんかなくてもご飯が炊けるし、せっけんひとつで髪の毛まで洗えるようになった。化粧水もなくても平気。マルチバームかオイルは欲しいけど、最悪太白ごま油がひとつあればいい。
洗濯機も持たず、途中で脱水専用の遠心分離機みたいなバケツを買った。

冷蔵庫とふたくちコンロ、オーブンは用意した。料理するために。
食器は少ない。応量器(おうりょうき)のような入れ子の漆のお椀セットと、やっぱり入れ子になるうすはりグラス3個セット。途中で大き目のオーバル皿を追加した。

部屋には無印良品のベッドと折りたためる椅子と机。のみ。

服も少ない。靴も少なかった。

が、今はその生活をやめた。
洗濯機も買った(なるべく小さいものだけど)。
棚もいくつも買った。資料やプリンターも増えた。

多分、ミニマリスト的な生活は可能だし、理想だ。私は片づける能力が低いので、モノが少ないほうがいいという事には気づいていた。

しかしだ!!

ミニマリストになるには、ミニマムなルートはないのだ

自分にぴったりのものを買うっていうのは、つまりそれだけいらなくなるけど試さないといけないものを買う必要が出てくる。
ミニマリストはお金がないからミニマム、というのとは違うのだ。
ミニマムにセットアップするために、めっちゃお金をかけて、めっちゃいろんなものを廃棄するのだ!!

つまり、ミニマリストになるにはすごくお金がかかる。手間も、知恵も必要で、技術も要求される、とってもハードルが高い事なのだ。

世の中のミニマリストは、大金持ち(メジャーリーガーとか)が大豪邸じゃなくてトレーラーハウスに住んでるみたいな、そういうあれだ。

「金はあるよ。あるけど、でも人間らしい生き方って、そういうことじゃないだろう?」

っていう感じの!!
VOGUEとかにインタビューがのってるみたいな!

単純にモノを少なくする、とか、ミニマリストブログ書いてPV稼いでアフィリエイトでーみたいな事では、ちょっとたどり着けない境地。

だって2泊3日が二回続いただけで、カバンをどうするか2つ3つ買う事になった私は、ほんとミニマムじゃない…。
大きさがちょうどいいと思って買ったら、横幅と深さのバランスが悪すぎたり、取っ手が短すぎたり。これもあれも、ダメ。どうしよう。
そんな事の繰り返しです。
無駄がすごい。全然ミニマムじゃない。

でもこれを通り過ぎないと、私は本当のミニマリストにはなれないんだろうなという事がわかってしまった。

ミニマリストはお金がかからないかもしれないけれど、ミニマリストになるにはお金が相当かかるという罠があるのです!!!

それにいいものはやはりお金がかかる。というか、ミニマリストというくらいならかけなくてはいけない。
ヒートテックよりウールやシルクやカシミヤを、スッと迷いなく取れるかどうか。単価は安くて1万円越えるし、数万円が普通。
すごく試される価値観!!
ただそれが挑戦になって、楽しいという事はあるかもしれない。

実際、楽しい。

お金いっぱい使っても、「ミニマムに暮らすために」というお題目があるからどこか罪悪感がないし。
そもそもこの物を買う時の罪悪感こそが諸悪の根源じゃないかと思うんだけど、そこをスッと蓋ができる素敵なシステム。
モノを持たない生活に憧れる人は、消費社会の罪悪感を誰かから植え付けられてしまっているケースが多いような気がして、それって結局自分の人生を生きていないっていう事だから根本的な問題は何にも解決していない。
(でもミニマムになって罪悪感というストレスが減ることで、なにかに気づくかもしれない。たぶん、私はそういう事だったような気がする)

ミニマリストコンテンツが、どこか荷物の多い人を小バカにしている感じなのはそんなところからくるんじゃないかなと思っている。

自分たちは消費社会という罪悪から逃れる革命の戦士である、という気持ちが、どこかにある。それが滲(にじ)んじゃう。

酷い時にはお金持ちへの憎しみとかも、同時にぶわっと吹きあがってきちゃう。

そんなふうに、この消費社会の問題、格差について、生き方についてなどを一度に見直さざるを得ないのが、このミニマリストになるための過程にあると思います。

内向的な社会活動というか。

だけど、そういう「なんちゃってミニマリスト→普通の生活に戻す→いいものを買いはじめる→チープなものを捨て始める」という流れになって、やっと私は私なりのミニマム、というがゼロ地点を見つけられるようになってきたんじゃないかと思う。

ミニマムを知るという事は、マキシマムも知らねばならぬ。
と個人的には思っている。
逆に、マキシマムを知らねば、ミニマムにはなりようがないという事でもあるのではないだろうか。

ヒートテックじゃなくて、カシミヤ一択!
シルクのシーツ!
縫製がしっかりしたカバン!
どれもが相当な高額商品になる。

若いころからいいものに触れなさい、というのはそうかもしれないけど、チープなものにばかり触れていて大人になって知った高級品は、とんでもない吸引力で魅了してくる。
こんなに素敵なものがあったの!欲しい!ってなる。

今の時代は、マウンティングの時代なので、いいものを持つことでも、まったくもたない事でもマウントになる。
ブログとかは、初期は純粋に書かれていても途中からPVが増えるにつれてマウント要素が混じってしまう。そういうものだ。

そういう事も含めて、ミニマリストという選択肢はいろんなことを教えてくれるような気がするんです。

私は、ミニマリストになろうという気持ちはなくなってからのほうが、本当の私にとってのミニマムが見えてきたんじゃないかと思う。
誰かにとってのミニマムを試すのは、やっぱり単なる慣らし運転でしかないんだと思うのですよ。

ヒートテックで防寒っていうのは、私のミニマムじゃなかった。ウールとか、シルクが私のミニマム。高くつくのだ!こんなワガママバディだとは知らなかったよ!

化粧品も全部100均でいいの、とは言えない。別におシャネルさまとDior様じゃなきゃだめ、とかは言いませんが。

自分なりのミニマムはそんなに安いもんじゃない。
というのは、かなり目鱗。
安く暮らす事よりも、心に、魂に沿って暮らすことを考えると、そうなってしまう。それがミニマムサイズ、ミニマム品質なら、それを選ばないといけない。
それは全然安いものじゃない!(大事なところなので繰り返します)

ただ一回うまくセットアップが完了したら、すごく安くなるんじゃないかなーとは思いますよ。

最終的に、私なりのミニマムとマキシマムが手に入ることを、夢見ている。それがどんなものなのかは、まだよくわかっていない。だからこそ、探す事を楽しんでいるのかもしれない。

自分の事なのに、何もわからないのだ。
バカみたいだなと思う。

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