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弱さを抱えて生きていくこと

だいぶ昔の話になるが、テレビのバラエティ番組でお笑い芸人がドッキリをしかけられていたのを見て胸が痛くなったことがある。ドッキリの内容はよくあるもので、それまで和気あいあいと話しているところにターゲットが加わるとなぜか突然皆がよそよそしくなる、というものだったのだが、とてもいたたまれなかった。

僕はある弱さを抱えて生きている。その弱さは例えば車いすに乗っているだとか、耳が聞こえないだとか、そういう他人に分かってもらえる類のものではなかった。僕の弱さをあえて無理矢理説明すると「この世の中に必ずあるルールが理解できない」というものだった。例えば学校や、会社、趣味のサークル、といったものにそのルールは存在するのだけど、僕にはそのルールがさっぱりわからなかった。

こんなこというと「ルールなんて、そんな大層なものは無いよ」と声をかけてくれる人がいる。ほとんどが優しい人で、僕が集団になじめないことをとても気にかけてくれるタイプの人だ。その人は僕にとても丁寧に「世間では女性に彼氏がいるかを聞くのはセクハラと言っているけど、おつぼね様に、彼女いるの?  とあなたが聞かれても『答える義理はありません』と言ってはいけないんだよ」と教えてくれた。僕は思った「えっとつまりそれはいったいどういうことなんだろう」

僕を気に掛けてくれる人が「そんな大層なことじゃないよ」というのを全く理解できなかった。簡単に言えば「それは大層なこと」だった。僕から見えるその人は、まるでステージ中にパワーエサが転がっているパックマンみたいに強そうだった。

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一方僕のステージにはパワーエサはひとつも落ちていないような気がしていた。

ルールと言うのは今思うとパワーエサみたいなものだ。それを理解する(接種する)とあらゆる状況が好転し、味方してくれる。それを理解しないと永遠に奴らに追い立てられ、やがて追い詰められて自滅する。けれど僕はいつまでたってもパワーエサを社会で見つけることが出来ない。やがて奴らは様々な手段で僕を貶めようとしはじめる。盗聴だったり。テレビの電波をジャックして僕のテレビに直接メッセージを映したりもした。最終的には僕を眠らせ小型のチップを埋め込み僕が考えることすべてを支配しようとした……などなど。そんなことを考え始めた矢先に僕はいつのまにか閉鎖病棟のベッドで眠っていた。どこかで現実と妄想の区別がつかなくなったらしい。

そうして僕は「弱者」になった。でもそんな称号を得ても何かが劇的に変わることはなかった。強いて言うならば「失業手当」が少し長めにもらえるようになったのと映画のチケットが割引されるようになった。さあ。社会が僕に向かって言う。ハローワークに行きなさい。僕はその足でハローワークに向かい、障害者枠での就職を探す。途中、特に精神障害を持つ人の就職に関しては地域のPSW(精神保健福祉士)などの支援員の後ろ盾がないと取り合ってくれないところも多いと知り、地域の支援員さんの協力を仰ぐ。PSWというのは精神に障害がある人に特化したワーカーさんで、僕がパワーエサをとれない問題に関してもとても丁寧にどうするべきかを一緒に考えてくれた。

支援員さんは、まず就職する前に一度働くための体力を整えなければならない、と言う。その通りだ、体力以前に僕はいつのまにか昼夜逆転してしまう狂った生活リズムの中で生きており、気が付けば日の出を見ながら号泣していることもよくあった。だから最初は、「地域活動支援センター」通称「地活」に通った。ここは主にちょっと働くには能力的にしんどい人たちが日中を過ごす施設として利用されていて、僕のように就職までの肩慣らしで来ている人もちらほらいた。ほとんどが統合失調症の人だった。職員さんはPSWの資格を持っており、よく相談に乗ってくれた。

話は逸れるが「弱さ」とともに生きるようになってから嫌でも「差別」というものと隣り合わせで生きていかなければならなくなった。「差別」というのはされる側になって初めてわかったのだけど、してるほうもほとんど意識していないことが多い。だから実のところ「差別」というでかい石を四方八方から投げられることなんて滅多にない。むしろ雨のたくさん降った車道沿いを歩いていてトラックに水をかけられる、どちらかというとそのイメージに近い。してる本人もまったく悪意など無く、「仕方ないこと」のように思ってしまうことが多い。

その地域活動センターのイベントで外部のその地域で取れた農作物を売る施設に少しだけ出張し、売り子として働くという機会があった。そのとき、お店で何かを探すようにうろうろしているおばさんがいたから「何かお探しですか?」と近づいたのだが、その人は突然、あ! と声をあげて何かを恐れるように僕から遠ざかっていった。「ごめんなさい、そんなつもりじゃないの」と要領を得ない言葉を口にしていたが、僕はよくわからずその人に近づき「もし何かお探しでしたらご案内しますよ」と言ったところでお店の人に止められた。曰く「障害者なんだから少しは自覚を持て」ということだった。僕ははじめて「差別」というものがどういうものかを知った。多分お店の人もお客さんもとても善良な人だったと思う。

話を戻すと、僕は「地活」にて自分の弱さが決して楽なことではないということを学んだ。でも同時に世の中には驚異的にも人を差別しない人間が存在することも知った。その人はPSWのうちの一人だったのだが、僕は一時期その人を神か何かだと思っていた。でもそれくらい珍しい存在だったのだ。

地活に通ううちに生活リズムが整いだして、日の出を見ながら号泣することはなくなった。すると支援員さんは、僕に次のステップを勧めた。いわゆる「A型事業所」と呼ばれるその施設は就労継続支援A型の略称であり、福祉と雇用の中間だった。最低賃金だが、働いた分のお給料がもらえる。仕事の内容はとても簡単な軽作業が多かったが一部高度な技術を必要とするものもあった。経営はその作業によって得られる利益のほかに、国からでる補助金でなりたっている。福祉と雇用の中間であるのはそのためだ。

A型事業所は精神障害者だけを雇用しているわけではなく、その事業所が受ける作業内容にもよるのだが、だいたい身体障害者の方や知的障害者の方たちと一緒に仕事をすることになる。これがとても難しい。「弱さ」を抱えているもの同士お互いに支え合って仕事が出来るのではないか、と思われるかもしれないが、そうはならない。それぞれがそれぞれに「弱さ」を抱えているのでなかなか他人の抱えている「弱さ」まで頭が回らないのだ。これは僕も陥った危険な思考なのだが、片腕が動かない人が周りの人と同じペースで仕事ができないことにイライラしてしまったりする。正気か? と思うかもしれないが、これが本当によくある。僕はそういうふうに思いそうになった時は自分が「差別」にあった時のことを思い出すようにしていた。歩道を歩いていて何とはなしにトラックが横を通ってずぶ濡れになるあの体験だ。そこまでしてようやく冷静になって周りを見渡せるような気がしていた。

これは端的に「余裕」の問題として説明できる。余裕がある人ほど他人の「弱さ」を許容できるというとても分かりやすい理論で、「弱さ」を抱えて生きている人にはなかなかその余裕を持つことが難しい。かつて地活にて奇跡的に僕に対して対等に接してくれた人がいたから、ぎりぎり余裕を持てたともいえる。もし僕が弱さにおぼれ、自分が世界で一番可哀想だと思っていたら、そんな余裕は持ちえなかったと言ってもいい。かつて『ペイ・フォワード可能の王国』という映画にてハーレイ・ジョエル・オスメントが優しさを伝播させる、ということを言っていた。多分こういうことが言いたかったんだろう。

お給料がもらえるとはいえ半分は福祉施設である。そこまで厳しくはないし、辛くなったら会社を休めばよかったし、めんどくさい人とは距離を置けばよかった。会社組織ではないのでどうしてもいうことを聞かなければならない上司がいる、ということもなかったし。単純に仕事がはやいということだけで周りからは一目置かれた。これはいわゆる僕の高校生までの処世術で、まわりとは一切馴染めないが、勉強ができるということでなんとかパワーエサとはいわないまでも、周りから一斉に狙われるということはなかった。単純な政治なら僕にもまだやりようはあったということだ。

そして、A型での就労も1年を過ぎた頃、大手自動車メーカーの特例子会社へ就職が決まる。特例子会社というのは大企業が障害者の雇用率を満たすために設立した会社で本社とは別組織にして障害者を大量に雇う仕組みだ。ただそこで僕を待ち受けていたのは、とてもとてもつらい現実だった。

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平成30年度障害者雇用実態調査/厚生労働省

特例子会社だと、多くの場合40時間(8時間勤務×5)になると思うのだが、上記の表を見ての通り、国税庁が発表している29年度の平均所得432万円と比べても半分にも満たない。

まず給料の低さを見て、僕は打ちのめされた。もちろん特殊な技能を身に着けたり、色々別の方法はあったのだろうが、足掛け3年ほど社会復帰を何とかして成し遂げて待っていたのが貧困生活であったのは、なかなかに辛かった。

また障害基礎年金なども週40時間働ける精神障害者は受け取ることができないというのも追い打ちをかけるように効いてきた。(身体障害者の方や知的障害者の方は貰っている方が多かった)

最後に僕を苦しめたのは、最初に僕を苦しめたものと全く同じものだった。僕は相変わらず社会のルールが全くわかっていなかったのだ。特例子会社も障害者を多く雇い入れているので、サポート体制はあるのだが、やはり会社組織であるから、何のためにやるのかよくわからない朝礼があり、飲み会があり、それぞれに違う指示を出す上司がいた。結局のところ、僕の勤めていた会社は身体障害者の方と知的障害者の方へのサポートは手厚かったが、精神障害者はどんどん辞めていく会社だった。またしてもパワーエサがどこにも見つからないのだ。

この会社で僕は1年もたたないうちに致命的に体調を崩した。本社から出向できている社員が日々知的障害者の方を大声で罵っている風景を見て、僕の心のなにかが粉々になっていくような気がしていた。飲み会で上手くふるまうことが出来ず孤立し、やがて会社のひとすべてが僕の悪口を言っているような気がして、実際にその悪口を聞き出した。再び精神病棟の天井を眺める日が来るまでそんなに長い時間はかからなかった。


何回か社会に出てはそういうことを繰り返し、同じように沈んでいった。今は無職で、束の間パワーエサを探し回らないでいい時間を楽しんでいる。僕はまだ旅の途中で、何か結論めいたことを言える立場ではないから、ここまで読んでくださった方に多大なる感謝を述べて終わりにさせていただく。


もしよかったらもう一つ読んで行ってください。