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これからの文芸批評のために

現代はとても忙しない時代で、近所に散歩に行ったくらいでは穏やかな風にただ葉がこすれ合う音だけが聞こえてくるなんて滅多になくなってしまった。ささやかな小川のほとりであろうと道路である以上そこは車の往来があり、そうでなければかえって健康のために歩く人たちの喧騒に巻き込まれている。誰が悪いわけでもないし、僕もその喧騒のなかの一人である。

最近生きていて、強く感じることがある。これまで生きてきた中で、たくさんの素晴らしい書物に出会ったが、実のところそれら全てが僕を通り過ぎていった喧騒のようなものなのではないか、と。もちろんこれまで読んできたものを腐すつもりはないのだが、どうにも僕は周りの目や歴史の目を気にしながら何となく「良い」とされている作品を読んで、かつての偉人がどのような形でそれを「良い」と受容してきたか、ないし人々がそれを「良い」と受容する背景にどんな土壌があるのか、なんてことばかりに気を遣っていたのではないだろうか。

最近、映画やコンテンツの「倍速視聴」が話題になっていて、僕自身とても身につまされるテーマだった。最近の若い人が映画やアニメを「倍速」で見るというのにフォーカスをあて、それに対して「教養のある大人」がコンテンツを台無しにしてしまうおそれがある、と警句を発していた。僕は映画を倍速で見はしないが「マルホランドドライブ」を3回目で挫折して解説記事を見た経験がある。つまり、自分こそは映画を倍速で見たりしないし、小説のあらすじだけを取り上げたものを読んだりしないという自負がある人こそ疑ってみるべきではないだろうか。自分が本当に自分の心の滋養のためだけにその作品に相対し、作品が語り掛けてくれるまで耳を澄ませただろうか、と。

そういうことを考えると問題はそれほど単純ではないのだろうな、と気付く。アカデミーで論文を書くとなると先行研究にあたるのは当然だし、アマチュアでも作品についてのあまりにも見当違いの情報発信はいつだってSNSのオンラインダーツの的になる。僕らは作品について語るときある程度自分が見当違いなことを述べていないかチェックするだろうし、自分の意見が本当にオリジナルなのか確認するためにすでに公表されている感想などをざっと読んでみたりする。それはマナーに則ったもので、コンテンツの「倍速視聴」とは話が違う、そうあなたは反論するだろう。僕の言いたいことはここからなんだけど、ほんとうにそうなのだろうか?

ほんとうにそうなのだろうか?
ある文学作品を読んで仮に意味が分からなかったとする。ちなみに僕は最近セールで買ったブラッドベリの短編集『歌おう、感電するほどの喜びを』の最初の作品である「キリマンジャロ・デバイス」の意味がいまいち呑み込めなかった。そこに登場するとある作家のこと(表題から推察できる人もいるだろう)は大好きだし、彼の作品は結構読んでいるつもりであっても、だ。
人はその物語の意味が自分にダイレクトに響いてこなかったとき、かつ、その物語が自分以外の多くの人に賞賛を浴びていることを思った時、不安を覚えるのではないだろうか。そういう時こっそりと誰かの感想を盗み見して、なるほどこういう感動があったのかと納得して、あたかも最初から自分も感動していたかのように振る舞うことに心当たりが全くない人がいるのだろうか。

幸運にも僕は高校時代に幸せな読書というものを経験した。幸せな読書と言うのは、その物語がまるで内緒話でもするかのように、僕だけに本当の意味や感情を伝えてくれているかのような錯覚を覚える読書だ。いうなれば、先ほどの「不安な読書」とは全く逆だ。なんせ耳打ちで自分だけに秘密を打ち明けてくれるような読書なのだから。

その経験があったからこそ、作品が何も語りかけてこないうちは、耳を澄ませていることが唯一の解決法だ、と言うことを知っていた。そして、それを知っていたのにも関わらず、自分と作品との秘密の会話を誰か全く別の人の感想で塗りつぶすような暴挙を何度も犯した経験があるのだから知識なんて意味はないのかもしれない。

インターネットはとても特殊な空間で、例えるならば、とてつもなく見晴らしのいいひたすら平坦な空間だ。探せば自分よりも「正しい」作品に対する理解がすぐに見つかるし、そういう批評を見るにつけ、自分の中だけにある批評の萌芽はおそらく意識もしないうちにヘナヘナと萎れてしまう。「なんだ。自分よりも正しく、深く理解している人がここにいるじゃないか」という具合に。だから最近強く思うのだ、金輪際誰の意見にも耳を傾けてはいけない、と。いや、かなり極端な話なんだけどさ。

けれど、それを極端な例として。つまり空手の達人が1日1万回正拳突きをする、みたいな話として済ませていいものだろうか、と自問する。僕は他人がどういう風に作品を楽しもうが全く自分とは関係のないことだと割り切っているが、こと自分に関してはどうしてもそれを極端な話として片づけることが、いよいよ、出来ないような気がしてきた。喧騒に疲れたのだ。

少しだけ批評というものを神聖視していることにはどうか目をつぶってほしい。ずっと昔から、僕がまだその作品の本当の価値を分からずにいるものについて、踊るように、或いは弾むように、作品の持つ秘密を語る人が好きだったのだ。けれどようやく気付いたのは、批評はどこまでいっても僕個人と作品の間にしか存在しないことだった。どんなに素晴らしい評文を読んでも、耳を澄ますことを忘れてしまったら、そこに残るのはけたたましいダンプカーがインターネット空間を平らにならす地響きの音だけだ。

「分からない」ということが実のところ、分かったつもりでいることよりもずっと価値があることだというのは遠い昔、ソクラテスの時代から変わらない真理ではあるが、往々にしてそれを忘れている。「キリマンジャロ・デバイス」については未だよくわからないのだけど、今はこの「分からない」がとても大切なことだということを知っている。これから僕は『誰がために鐘は鳴る』を読み返すだろうし、『日はまた昇る』のあの気だるげなスペインのレストランのシーンをもう一度噛みしめるだろう。何かを探し求めるためではない。ただ耳を澄ますために。

インターネット空間では正確であることや、定点座標に則った作品理解の深さが求められる。けれどそれらはそれを書いた人にとって「耳を澄ますこと」であるかもしれないが、当然万人にとってそうではない。見渡す限りの地平線で、客観的かつ誤解がないように平らかであることが求められるとするならば、僕は時空の曲がりくねったこの「私」という異空間のなかで、ひたすらに平らかではなく、筋の通らない、全くもって異質な批評を書きたいと思っている。

これからの文芸批評のために、などと大層なタイトルを掲げてしまった。今になって気付いたのだが、至極あたりまえの話だった。作品と内緒の会話をしたという確信を持てるまで、もう誰の意見も読むつもりも、必要も無い。






もしよかったらもう一つ読んで行ってください。