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こころなんてないかもね

映画館に行くたびに意味もなく傷ついてしまうことがある。エンドロールの最終幕の音が遠ざかり館内の明かりが灯されるとともにどこからともなくすすり泣きが聞こえてくる。そういう経験はとりたてて珍しいものではないし、むしろありふれた話だ。先月、コロナが今ほど爆発していない時期に東京に行ってきた。東京に行ったところで特に遊び方も知らないし遊ぶ人もいないので夜行バスの時間まで映画館(シネコン)で時間を潰すことにしたのだ。とはいえ3時間とか4時間の話ではなく、がっつり10時間くらい潰さなければならなかったので特に見たい映画があったわけでもないのに3本ほど時間が合うものをみたのだ。

そのなかでヴァイオレットエヴァーガーデンと鬼滅の刃を見た後にどこからともなく聞こえてくるすすり泣きを聞きながら、正直どこで泣くのが適切だったのかわからず、頭を悩ませることになった。決して面白くなかったわけではないし、流行りの映画ということで斜に構えてるつもりもない。ただ、なんですすり泣きが聞こえてくるのか理解できていないのだ。しかし自分の半生を思い返すとこういうことばかりだった。

高校生くらいの時にようやく動画配信サービスというのが当たり前になった世代なのだが、バンドの友達やガールフレンドに「あの動画泣けるから観なよ」と言われて見た感動系エピソードで心が動いたためしがなく、感想を求められるたびに「泣けた」と嘘をついて、自分が何も感じていないことにどこかで違和感を感じていた。大人になるとそれは顕著になり、SNSで流れてくる話題の映画やアニメーションに「何が面白いのかわからない」と言うと、時に「逆張り」というレッテルをはられることもあった。そんなことでもう傷ついたりはしないが、自分の中にはどこか欠損した部分があるということにいよいよ真実味が帯びてきた。

話は変わるが、最近「こころ」なんてものは存在しないのではないかと感じている。慣用句的に「傷ついた」という語を使うことは当然あるし、上の文章には「傷ついた」という言葉がまさに使われているのだが、少なくとも自分の内部に目を向けてそれぞれ感情の起伏を観察していると「心」なんていう曖昧な現象は無いように思われるのだ。たとえば人前で自分に関する不名誉な噂を流されたとしても、それは心が傷ついているのではなく、他人からの評価という広い意味での財産が損なわれているのだということに気付く。多くの場合、心が傷ついているというのは、広い意味での自分の財産が損なわれていたり、純粋にぐろい画像なんかを見て気分が悪くなっていたり、或いは自尊感情や、正義感という一貫性が肝となる感情に矛盾や疑いが生じていたりするのではないだろうか。

そのようにつぶさにそれぞれの「心が傷ついている問題」に目を向けていると、その一つ一つは電気ケーブル内の断線のように具体的な一部分の破損であることに気付く。そう考えると、僕たちが「心」と呼んでいるものはいわば損得勘定や、好悪判断、自己認識の一貫性などのそれぞれが具体的な電線の束の総称なのではないか、と思われてくる。いくら人体を解剖して血管をつぶさに調べ上げても、血液や心臓、それを体の隅々までにいきわたらせる管は発見することはできるが、「循環」という概念は何処にも見つからないように、心も概念としてそこにあるだけなのではないか。

先の文章に照らし合わせるとしたら、僕が傷ついていたのは自分が異物であるような疎外感によって「生存本能」が危機信号をあげていたのではないかと思われる。大げさかもしれないが、人間は群れで生きていく動物なので他人と違うという事象は多かれ少なかれ心を安らかにはしない。とはいえ、それは致命的な問題ではない。現代では他人と違うことでガス室に送られることもなければ、ネットでいくらでも同じ仲間を見つけることが出来る。この断線は修復可能なのだ。

この前、川沿いを散歩しながら、「心、ないかもな」と気づいたときに、それはある種青春の終わりと呼びうる事態なのかもしれないと感じていた。青春時代の僕たちは断線を経験するたびにその断線によって自らの何が損なわれているのか、どう修復したらいいのかを知らずに、「心が傷ついた」という便利な言葉で包み込んで、身体の奥底に横たわる不快感を表明することしかできなかった。今や、損なった電線は修復可能だと知っているし、修復が不可能なものは別のもので代替すればいいことを知っている。いや、何もかも修復できるというのは思い上がりだろう。今も癒えぬ傷を抱えている人を未熟者扱いするつもりはないし、修復を司る脳の機能的な部分に物理的な損害を与えるある種の傷も存在するのだろう。けれど自分のことだけに限定してしまえば、おそらく心なんてものは青春期の幻想だったのだ。

それを踏まえたうえで、最初に書いた「涙を流せない問題」に立ち返ると、僕が抱いていた疎外感や異物感こそがまさに青春の証しだったわけである。もっといえばそれこそが自己認識の一貫性だったのかもしれない。アイデンティティというやつである。「俺はこんな物語で涙を流したりしない」なんて肩ひじはったことを思っていたつもりもないのだが。

心という神聖なものが電気ケーブル内部に走る数々の電線に置き換えられ、特にこだわりもなく、「自分が自分である理由」なんてことがどうでもよくなっていく。今年31か32になったと思うのだが、長い青春だったような気がして少しだけセンチメンタルな気分になる。


もしよかったらもう一つ読んで行ってください。