見出し画像

夏の内臓のなかで 個人的な体験/大江健三郎

※注意
僕個人の信条として、出生前診断などで障害のある子供を「産まない」という選択を仮にパートナーが迫られたとしても、僕は個人として絶対に産んでほしいと思うし、強制力を持たないよう細心の注意を払ったうえでパートナーにそうお願いすると思う。

ということを踏まえた上で以下の文章を読んでいただけると幸いです。


kindleのpaperwhiteを買って以来、阿修羅のごとく本を読み続けている芦野です。隙あらば本を読んでしまうのでnoteでアウトプットすることでなんとかペースを落とすことを画策しています。

What is 個人的な体験?

今回なんの気なしに読んだのが大江健三郎の『個人的な体験』。大江健三郎の息子さんである大江光さんは知的障害があり、その出生をめぐってのあれこれを大江健三郎という作家はこすり倒している。この『個人的な体験』では「脳ヘルニア」を患って生まれてきた子供と言うふうにされており、大江の定番ネタの最初の作品である。

とはいえ僕自身、大江健三郎って新潮の芽むしり仔撃ちと死者の驕りくらいしか読んだことがなくて、しかも読んだのがかなり前だったから、正直「暗いこと書く作家だな」って印象しかなかった。

大江健三郎、文章うますぎ問題

読んでいて衝撃を受けたのは「こいつ滅茶苦茶に文章上手いじゃねえか!!!」である。ノーベル賞作家に対してあまりにも不遜な感想を抱きながらの読書だったが、大江健三郎めっちゃ「やって」ます。例えば

  荒あらしいほど豊かな光がそこにあふれていた。そこはもう夏のはじめ ではない、夏そのもの、夏の内臓のなかにある。鳥はその光の乱反射に額 を灼かれた。

大江 健三郎. 個人的な体験(新潮文庫) (Kindle の位置No.1942-1944). 新潮社. Kindle 版.

主人公は鳥(バード)というあだ名を持つ20代後半の男なのだが、彼が特児室という保育器がずらっと並べられたところに生まれてすぐ搬送されたわが子の様子を見に行くシーンである。

もうここを読みながら「やってんなあ!」という謎の感情が湧き出でるとともに、虚空に向かってスタンディングオベーションをしたい気持ちになった。保育器の並べられた赤ん坊たちの病室はおそらくものすごく明るいし、それ以上に新しい命から迸る光の眩しさはもはや夏そのものであるか、夏の内臓のなかであったのだろう。夏の内臓!?!やってんなあ!

  鳥は、たとえば 睾丸の襞のように、自分の肉体のいちばん醜いけれどももっとも快楽に敏感な場所を、わけ知りの指にひとなでされたように感じ て、身震いした。

大江 健三郎. 個人的な体験(新潮文庫) (Kindle の位置No.2109-2111). 新潮社. Kindle 版.

このシーンは、鳥(バード)が自分の子供をもはや助けるつもりはなく、このまま衰弱死してくれることを願っているのを見透かされ、「回復すること望んでないの?」と医者から聞かれる場面だ。

完全にやってんなあ!である。「どきっとした」「背筋に冷たい汗が流れた」なんて言葉で片づける人間にノーベル賞は取れないのだ。「金玉をいきなり訳知り顔でひと撫でされたような感じ」と来られた日には、もう笑うしかない。僕はここを読んでるときちょっと笑いすぎて涙が滲んでいた。大江健三郎めっちゃやばい。

福山雅治じゃあるめえし!!

そんなこんなで、大江健三郎の文章を堪能しながら読んでいたのだが、僕の脳裏にはそれとは反比例して、どうしてもいや~な感じが漂い始めていた。この鳥(バード)という主人公、最初は脳に大きな瘤のある奇形の息子を疎ましく思い、浮気相手とのセックスとアルコールに溺れ、「すべてを棄ててアフリカに行こうか」などと宣う男なのだが、最終的に父親であることを自覚し、現実という大河にどっしりと両あしを踏ん張り健全な家庭生活を送り出してしまうのではないか、という懸念が浮かび上がってきたのである。

そして実際にこの物語は鳥(バード)が精神的に成長し、父親としての責務を果たしていくという決意とともに幕を閉じる。

おい、ちょっとまて!

作家たるもの息子を闇医者に殺させて愛人とアフリカに逃亡した挙句、なんかちょっと洒落たことを言って恥ずかしい人生をさも恥ずかしくなさげな感じにデコレーションするのが仕事だろ!

立派に父親になるのは福山雅治の役目で作家の役目ではないだろ!

そういう悲痛なほど恥ずかしい叫びを一通り叫ぶ羽目になった。実際のところこの小説が発表された当初も同じような反応が巻き起こったらしい。小谷野敦は「この作品は、年末に新潮社文学賞の受賞が決定したが、選評は散々なもので、これでよく受賞したものだと思える。」と書いている。

三島由紀夫は「ラストでがっかりした」と書いているし、「道徳的怠慢」とまで書くひともいたらしい。これは至極当然の話で作家と言うのはほぼ人間の屑要素のデパート的な存在であり、寧ろそうでない人が純文学の作家になるわけがない。

よって一般の評価がすこぶる高かったのに対して、屑のソムリエたちの評価は芳しくなかったと予想する。僕も屑のソムリエのワナビーとして「作家として恥ずかしくないのか」と人間として極めて恥ずかしい感想を抱く羽目になった。

イクラちゃんになるしかねえな?

僕はこういう人間なので、この小説のラストを直視することが出来ない。上記のツイートはあまりにも立派な大江健三郎の社会的ペニスを目撃し、幼児退行現象を起こしてしまったのである。

僕は小説の特に純文学と呼ばれるジャンルは、社会的なペニスを様々な理由で去勢された人たち(当然女性も含む)がなんとかして社会的な自慰行為をするための特殊なエロ本だと思っていた。たぶん今も思っている。

だからこの小説は僕にとってあまりにも眩しすぎて、あまりにも正しすぎたのだ。

僕はこの現象を夏の内臓と名付けることに決めた。散々言ったかもしれないが、僕たちが夏の内臓のなかで生きていかねばならないことは紛れもない事実ではある。



この記事が参加している募集

読書感想文

もしよかったらもう一つ読んで行ってください。