静止画で観るマトリックス ストーリー編
前回アクション編で紹介したマトリックスという映画は一体どういう映画だったろうか。繰り返しになるが僕にとってマトリックスはとてつもなく映画的な魅力に満ち溢れた作品だった。それはキアヌリーブスが銃撃戦の最中、身をさらすと危険な柱と柱の間に落ちている武器を何故か側転しながらgetし次の柱まで移動するというシュールでしかありえない場面をよくわからん魔術をつかって「魅せる」映像にしてしまっているところを目撃したとき顕わになっていた。
僕は映画というのは究極的には映像を楽しむものだと思っている。だから極めてマンガ的な表現を実写でやる、という馬鹿馬鹿しさをゲラゲラと笑いながら見れるこの映画はそれだけで十分に価値がある映画だと思っている。
けれどかつてやたら重たいカバンに教科書やらノートやらを詰め込んで気怠い朝を毎日行進していた僕たちは心のどこかで覚えている。マトリックスはなんだかちょっぴり深い映画だったことを。そんな頭の片隅で中途半端に引っかかっている記憶を少し呼び起こして、マトリックスがどんなストーリーを秘めていたのか、少しだけ思い出そうじゃないか。
マトリックスは”目覚め”の物語である。作中キアヌリーブス演じるネオは二度目覚める。一度目の目覚めはマトリックスからの目覚めだ。人々はコンピュータに支配された世界で夢(マトリックス)を見せられていた。SFではよくある設定だがそれまで現実だと思っていた世界はすべてコンピュータによって都合よく見せられていた夢であることを知らされたアンダーソン(=ネオ)はレジスタンス組織のモーフィアスという男に二つの選択肢を与えられる。
それが今やネット上で巨大なミームとなった”レッドピルの寓話”だ。様々な使われ方をするがもとはといえばある意味でただの”覚せい剤”だ。ネオはこのまま夢の中で眠り続けるという選択肢も提示されながら、それでも現実世界に戻ることを選ぶ。赤い錠剤、レッドピルを選ぶのだ。ただここでのネオの選択を僕たちは随分と誇張して理解している気がする。曰く「真実と向き合う覚悟」だとか、「現実の辛さ、厳しさと対峙する」だとか。
本当だろうか? ここにいるのがキアヌ・リーブスという稀代の名俳優でなくとも、たとえ僕でも、この場面は赤い錠剤を選ぶ気がする。そこには現実と向き合う覚悟なんてない、言ってしまえば興味本位だ。だってまだマトリックスから目覚めた世界についてネオは何も知らされていないのである。
そしてネオは覚醒する。蜘蛛のようなコンピュータが管理する「人間培養施設」で。この後初めて、ネオは知らされていなかった真実を知る。人間側の戦いは勝ちようのない無謀な戦いであること。なぜか皆が”救世主”というなろう系の勇者みたいな都合のいい存在を待っている。そして、それがネオ自身ではないか、というふざけた話を聞く。
僕だったら、秒でふてくされると思う。いや、知らんし。ってなると思う。でも多分それは僕が情けなさすぎるからではなく、親に過剰に期待されすぎて”ダメ”になってしまった子供たちの不幸な寓話を思い出してもらえば、非難されようもない人として当たり前の反応だと理解してもらえるのではないか。むしろそんな都合のよい勇者を勝手に押し付けられたうえでその使命をなんとか全うできないかと思うネオの奇跡的な人の良さよ。
それでも。ネオはもともと持っている能力がどうやら平均以上ではあるらしい。モーフィアスとの訓練でいきなり北斗千手壊拳を繰り出したのを鑑みるに相当な素質を持っていることがわかるし、本人も自覚しているだろう。もしかしたら自分は彼らを救えるかもしれない。皆が待ち望んでいる存在なのかもしれない、と。
そしてネオは”預言者”と呼ばれる老婆に会う。
残念ながら、彼は救世主ではなかった。しかも続けて預言者は、モーフィアスがネオを信じるがゆえネオを救うため命を落とす、と告げる。
僕だったら悪質なドッキリを疑う。皆が自分の素質いかんで救われるかどうかという瀬戸際にこの仕打ちである。しかも組織のボスであるモーフィアスはどこの馬の骨かもわからない自分のために命を落とすらしい。控えめに言って地獄だ。
(その後罠にはまり皆を逃がすためおとりになるモーフィアスを見つめるネオがこちら)
さてここまで読んでくださった方は、あれおかしいぞ? と思われているかもしれない。そうだ。結論を言ってしまうとマトリックスという映画において最後にネオは救世主として覚醒する。僕がマトリックスを二度の"目覚め"の物語だ、と言った一度目がさすのはマトリックスからの目覚めだった。そしてもう一つは救世主への目覚めである。
なぜネオは預言者に否定され、そんな自分のために組織のボスが死ぬかもしれない、という地獄に直面してなお、救世主に目覚めることができたのか。今回のマトリックス紀行の主眼はここである。
何故……?
それは気持ちの問題だからである
一応ことわっておきたいのだが僕は別にふざけているわけではない。本当に気持ちの問題なのだ。こういえばもう少しわかりやすいかもしれない。
なれるとかなれないじゃない
なるんだよ!
ジャンプ漫画のような台詞になってしまったが、こうとしか表現できない。「なろう系」という小説のジャンルを知っている人は少し考えてみてほしい、異世界に転生した彼/彼女はなんだか特別な能力をギフトされていなかっただろうか、彼/彼女はあるいは救世主とも呼びうる素質を備えてはいなかったろうか。
一方でマトリックスにおいてネオは預言者と呼ばれる人物に自分が救世主であることを否定されている。
つまり
俺が救世主であるだとか、救世主じゃないとか、そんなの関係ない
俺が救う、俺が勝つ
である。
それでは、あの預言者は嘘つきなのか? もう一度見てみよう。
そうなのである。彼女はネオが救世主ではないと一言も言っていないのだ。
彼女の使命はネオに「自分は違う」という暗示をかけることだった。なぜか? 何度でも繰り返そう
救世主であるとかないとかは関係ない。
君が誰かを救いたいと願うか、それが全てだからだ
マトリックスは二度の"目覚め"の映画である。一度目はある種受け身の、そうならざるを得ない、成り行き上の目覚めだった。二度目は、いうなれば主体性の目覚めである。
しかしそれでもプログラム上アドミン(管理者)と設定されたエージェントと互角に戦うネオも最後にはやられてしまう。マトリックスの世界で身体に銃弾を受けたネオは現実世界で体を左右に揺らし、口から血を流す。ピンチだ。
それを見守っていたトリニティが自分が愛した人が救世主であり、ネオこそその人であることを告げキスをする。
すると都合よく傷は全快し、救世主として真に目覚める。
実のところ、「要は気持ち次第」のこの世界において、トリニティが惚れたから救世主ですよ、なんて都合のいい話はない。ではなぜネオは目覚めたか。
答えは天元突破グレンラガンというアニメにとても明快に描かれている。人の信念はウォーズマンのスクリュードライバーのように、矢吹丈のクロスカウンターのように、共有する人の数だけ倍々になっていくのだ。
熱い……
もしよかったらもう一つ読んで行ってください。