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全員ぶん殴って全部奪え 猫を棄てる/村上春樹

例えば高校時代のあのうるさい教室の片隅でひっそりと「風の歌を聴け」を読むこと。それは周りと比べて自分が少しだけ特別であるかのように自分自身に言い聞かせるための呪文だった。

高校時代に読んだ「風の歌を聴け」やそれに連なる2作はほとんどかっこつけるために鞄につけるドクロのキーホルダーのような意味合いでしかなかったかもしれないが、それでも僕は村上春樹が好きだった。

とはいえ好きだったのは「ダンスダンスダンス」や「スプートニクの恋人」などのリアル寄りの作風のもので「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」などのファンタジー色が強い作品はどうしても途中で挫折した。あんまり熱心なファンではないかもしれない。

村上春樹の小説を僕がとても好きなのは、(僕の好きな)彼の小説では途中で人が死ぬからだった。当然寿命以外のきな臭い死に方だ。それに加えて、僕は村上春樹の書くなんだかミステリアスな美女(そしてほのかにエロい)が好きだ。言い換えると僕は人がきな臭く死に、ほのかにやらしいミステリアスな美女が出てくる小説が好きだ。

たとえば志賀直哉だとこうはいかない。志賀直哉は温泉でなにやら生き物を虐めてる少年たちを見て興奮したり、小僧に意地悪く鮨をおごる話をさも高級文学かのように書く。そういう趣味を否定はしないけど、僕はそんなものに興奮する変態ではない。村上春樹が書いてくれたほのかにエロい美女ときな臭い事件に巻き込まれることの方がずっと楽しい。

だからこの「猫を棄てる」というタイトルを読んだ時、とても嬉しかった、1Q84がどうしても長すぎる、という理由でしばらく離れていた中途半端なハルキストにとってこれしかない「復帰作」に思えたのだ。

その時点であらすじは大体予想が出来ていた。
なにやらほのかにエロいお姉さんと知り合うところから話は始まる。そしてすったもんだの果てにそのエロいお姉さんの元カレかなんかがきな臭い感じで死ぬ。主人公である僕は彼女の傷を癒したいと思っているのだけど、内向的な性格ゆえ、それが正しいのかどうかもうわからなくなってしまう。結局二人はよくわからない象徴的な意味合いを込めて猫を棄てにいく。中上健次が「岬」で発明した、もうどうしようもないからとりあえずみんなで岬にピクニックに行くというバズーカ式の抒情を踏襲する形だ。


ところが、
びっくりすることに、この本のなかでは誰もきな臭く死なない。それどころかほのかにエロい美女も登場しない。春樹を読み始めてだいたい15年ほどだろうか、僕はこのリアルの世界ではじめて、やれやれ、と口にすることになった。

そして
この本が彼の父について書いたエッセイだと認識するにしたがって、僕の中で大きな違和感が頭をもたげてきた。村上春樹という作家は僕にとって世代間の断絶、個人的に生きること、社会から受け継がれてくる諸々の価値観に対して「やれやれ」というポーズをとることのとてつもない意義を教えてくれた作家だからだ。

本作のなかで村上春樹はこんなことを書く

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一粒に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。

嘘だ
正直言って最初に抱いたのはそう言う感想だった。いや、もちろん嘘ではないのだろう。けれどこういう文章をあまり読みたくなかったのが本音だった。我々という存在が雨粒のような交換可能な存在であることに異存はない。そうではなくて、僕には雨粒に誰かの思いを受け継がなければならないような責務なんて絶対に認めたくないのだ。

当然乍ら誰かの思いを受け継いでいくということは良いことかもしれない。戦争は良くないということ、人の命は大事だということ、差別はいけないということ、その他いろいろな社会的に共有されるべきことを僕たちひとりひとりが受け継ぐことはもしかしたら全面的に肯定されるべきことなのかもしれない。

けれど本当にそうだろうか? と思ってしまう。
本来なら貧困のシステムや黒人デモのような社会的な問題を取り上げて、我々は受け継いでいくことを無批判に受け入れるべきなのだろうか? という問いの立て方をするのが正しいのかもしれない。
でもそれは本当は嘘で、僕はただただ自分の知らない価値観やルールが僕を規定しているだなんて認めたくないだけだった。

それはただ僕が学生時代に周りのルールについていけずに、ふさぎ込み、足場を失くし、あやふやであいまいなこの世界の暗い穴のなかに落っこちてしまった経験からの拒絶だった。ほとんど被害妄想だけど、僕はそのあいまいなくらい穴の中でこの世界には僕の知ることが出来ないルールがあって、それを侵すといとも簡単に社会というものからほっぽり出されることを学んだ。そしてそこで出会ったのが書物で、その中の一人が村上春樹だったという話。

もちろん彼はこの書物において一般的に推奨されるべき人のありようを提唱しているわけではない。あくまで彼個人の個人にまつわる話の帰結として先ほどの引用を書かれたに過ぎない。それはどうしようもなく真実だし僕の言っていることはほとんど言いがかりだ。ただそれでも僕個人の個人的な話として僕は絶対に何も受け継がないし、僕以外の誰かが僕を規定しているだなんて想像するだけで恐怖で手が震える。

でも本当はそれが間違いだということは痛いほど知っている。誰もいないくらい穴の中で「うるせー!俺は絶対に戦争で人を殺してやる。肌の色が違うってだけで滅茶苦茶に誰かを差別してやる」って強がりを言えてたのは、多分やさしい誰かが同じようにくらい穴の中から、そういうふうに生き延びる方法もあるんだよ、ということを教えてくれたからに過ぎない。僕にとってそれがたまたま書物だったし、村上春樹だったということ。

本当は今でも理解したくないと思ってる。けれどそれもまた社会において受け継がれていくものの内の一つだというのなら、否応なく、流れていく血液のようなものなのだというのなら、僕は馬鹿な子供みたいな顔をして、僕より幼い子供たちに小さい声で「気に入らない奴はぶん殴って、欲しいものは全部奪え」と囁き続けていたい。それがどんなに愚かなことだろうとしても。

それでいつか村上春樹と同じくらいのジジイになった時に、あいつがあの時言ってたのはこういうことか、って夜空の星を眺めるみたいに、明瞭に、気付くときがくればいいなと願っている。それは僕があいまいなくらい穴の中から見つけ出した夜の星がとてもきれいだったことを今でもよく覚えている、その名残として。



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