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なぜ元楼主は過去を、見ず知らずの私に話してくれたのか?

2010年前後から全国各地に残る娼街の撮影取材を続けてきました。尋ねた先では、娼家の持ち主すなわち元経営者やその家族(お子さんや孫にあたる方)と積極的にコミュニケーションを取るよう努めてきました。

コミュニケーションを積極的に取るよう努めてきた理由の一端は以前記しました。

こうした活動を外向けに話すと、私のやり方が過去を暴き立てる行為に映るのか、「怒られたりしないのか?」といった質問をされることがあります。結論は、ほぼありません。一度だけ酷くお怒りを頂戴した経験がありますが、これは娼家とは直接的に関係のない近所に住む人物で、いわゆる認知症を伴っているようにお見受けするなど、コミュニケーションがうまく取れなかった結果でもあるので、遊廓を調べていたことで怒られた、とはまた違うかも知れません。

元経営者やお子さんたちは、事前の了解なく唐突に訪ねてきた不躾な、しかも見ず知らずの私に、様々なことを教えてくれました。この経験は私にとって大切な思い出であり、次の取材へと奮い立たせる源となりました。とりわけ思い出深いのは、愛知県某市にあった娼家にお住まいだった元経営者の女性との思い出です。突然訪ねたこちらに屋内を自由に撮影することを許してくれました。関西と東京を往復するときはできるだけ立ち寄るようにして、特に用事などなくとも、ただお茶を飲んで、雑談をして、ときおり撮影して、頃合いを見て辞去していました。

初対面のときに既に90を越すお歳であったためか、お尋ねするたびにこちらのことを忘れていて、毎回自己紹介から関係をつくり直さなければなりませんでしたが、いつもこちらを信用してくれる懐の深さに、大袈裟かも知れませんが今振り返ってみると、老い方や生き方を教わった気がしています。残念ですが、数年前に他界され、ご遺族から納骨式への参列を許されて、お別れをしてきました。ご遺族から「母は年の離れた友だちを持てて幸せだったのではないでしょうか」とのお言葉を貰えたことは、私にとっては忘れがたい思い出の一つです。秋田県での思い出も以前記しました。

さて本稿では、なぜ関係者(ここでは元経営者やその子、孫たちを指して用います)は饒舌に私に過去を話してくれたのか?について考えてみたいと思います。

まず最初に断言できることは、私は話し上手や人たらしではない、ということです。取材を始めた当初は職業ライターを気取るように、背伸びして会話を盛り上げることに努めました。しかしこのやり方はどこか欺瞞的というか、相手から自分の欲しい言葉を引き出すために煽てるような不誠実さに気づき、すぐにやらなくなりました。

「なぜ」を考える前に、取材の現地ではどんなやり取りがあるのか、まずご紹介します。

いざかつての娼街がったはずの現地を訪ねても、今は宅地開発されたり、あるいは更地化されたりなどして面影は薄く、どのエリアが娼街なのか? どの家屋が娼家だったのか? が必ずしも分からないことが多くあります。そこで、大体のアタリをつけて「このあたりに遊廓みたいなものがなかったですか?」といった質問をご近所さんにしてみます。すると、ご存じであれば「あの家が、そう」と指差して教えて下さいます。続けて、一段声を顰めて、次のようなお言葉が伴うことが非常に多かったと記憶します。「でもあまりそういうことは尋ねない方がいいよ…」

ご近所さんの助言に感謝する一方で、どこか釈然としないものを感じました。もちろん遊廓であろうとなかろうと、私のような赤の他人が過去についてあれこれ詮索することは失礼になり得、慎重にも慎重を期さねばなりません。まして遊廓ならば。それを理解してなお、私が釈然としなかった理由は、自分でも掴みところがなく、漠然とした印象に留まりました。これは、のちのち少しずつ言語化できるようになりました。後述します。

話をやりとりに戻すと、ご近所さんのアドバイスを頂戴しながらも、私はお話を伺ったり、撮影のお許しを頂戴したかったので、教えてもらった元娼家とされるドアチャイムを鳴らします。「どう説明しようか・・・」「どうお願いすれば、ご理解頂けるか・・・」と逡巡し、事前に考えをまとめたつもりでも、ドアが開いてもなお気持ちは定まりません。

そして、ドアのあいだから、自分の名前と遊廓を調べていること、これが元遊廓ならば撮影させて欲しい旨をお伝えします。当然、こんな唐突な挨拶と申し出もないもので、ほとんどの場合、先方に戸惑いを与えてしまい、次に「なぜそんなことをしているのか?」という質問が返ってきます。

以前は「建築に興味がある」「歴史文化を勉強している」などと、どこか権威の裏に隠れて、しかも権威の傾斜から相手の胸襟を開こうとする言い方をしていたのですが、これも卑怯に思えるのでやめました。今は「遊廓が好きなので」とありのままに伝えています。この極めて稚拙な言葉遣いは、弁明のしようもありません。「女性の悲しい歴史を抱えた遊廓が好きとはなにごとだ?」と半ば呆れと怒りを感じたかも知れませんが、行為として好むことと、対象化して好むことは全く別物です。とはいえ、稚拙な言葉であることには何ら変わりがなく、抗弁はありません。しかし私の経験上、この言葉は不思議とドアの奥にいる人の懐に飛び込んでいきます。

さて、挨拶を済ませると、少なくない関係者が「まぁよく分からないけど、そんなに遠くから来たなら…」と邸宅に上げて下さいます。私は茶や菓子、ときにお昼をご馳走になりながら、過去の興味が尽きないアレコレについて、関係者の皆さんが饒舌に語る話に耳を傾けます。遊廓を調べ始めた当初は、知りたいことも多く、せっかくの機会だから…と矢継ぎ早に質問を重ねていました。しかし後述する理由から、これも止めることにしました。自分から聞かずとも、なぜか自分が知りたいことを向こうから教えてくださるような、不思議な状況が生まれていたからです。わざわざ矢継ぎ早の質問をする必要もなくなりました。

後に、神崎宣武氏が記した本に次の一節をたまたま見掛け、思わず膝を打ちたくなりました。ちなみにその本とは、名古屋市にあった中村遊廓を扱った名著『聞書き 遊廓成駒屋』です。

当方も手の内を自然にさらけたらよい。悪い奴じゃない、と思われだしたら、あえて質問をせずとも核心に触れる話もでてくる

神崎宣武『聞書き 遊廓成駒屋』

民俗学者・神崎宣武氏の向こうを張るつもりは毛頭なく、まして、私の取材は学問的なレベルの精度にない四方山話であることは百も承知ですが、おこがましくもまったくその通りであると感じたものです。加えて神崎氏は同著書で、前後して、こうも述べています。

内輪の話、本音の部分は誰だってそう簡単には話さない。初対面ですべてうちとけた話を聞こうとするのは、あまりにも虫がよすぎることなのだ。聞き手の傲慢さはもっとも戒めなくてはならないことである。

神崎・前掲書

恥を上塗りしますが、私が矢継ぎ早な質問を止めた理由もまったく同じです。他人の懐に飛び込むのは、ともすれば傲慢極まりない行為なのではないか? 赤の他人である私に、何ら見返りもなく、多くのことを話してくださる関係者のご厚意を前にして、鏡を突きつけられている想いがしました。取材対象者から赤裸々な証言を引き出していると評価されるノンフィクション作品に目を通すと、主役は取材対象者などではなく、功名心にはやる著者以外の何者でもない、そんな作品に出会って鼻白むことも少なくありませんが、取材を始めた頃の私はまさしくそうした存在でした。

関係者の話に耳を傾けながら、一方で先のご近所さんの言葉を思い出します。過去を話したくないどころか、むしろ関係者は饒舌ともいえるほど話して下さるという、目の前では反対のことが起きているではないか、と。私が感じた違和感は「それ見たことか」と勝ち誇る気持ちかとも訝しみましたが、それも違うようです。

関係者の話に特徴的なことは、彼らの言葉には家業を誇る響きが必ずと言っていいほど含まれている点です。もちろん売春を肯定こそしないものの、「他では悲惨だったらしいけど、うちは遊女を優しく扱っていた」「この土地でいちばん豪華な建物だった」「土地の名士や文人墨客が遊んだ」との異口同音を数えきれないほど聞きました。

九州地方のある娼街跡では次のようなやりとりがありました。関係者は私に言います。「ここが最近、女郎屋と紹介された。ここは女郎屋なんかじゃない。遊廓だ。撮影するのは構わないけど、そこは間違えないで欲しい」と。

遊廓にせよ女郎屋にせよ、世間一般に知られた言葉とは言え、法律や行政上使われてきた厳密な定義を持つ用語ではありません。社会通念として「女郎屋」に蔑みが含意されていることは理解できますが、俗語に近い2語に、厳密な定義や差異を求めることに、私は意義を見出せません。加えて、個別的な例外やまだらはあれど、どのような呼称であれ、人身売買、性暴力、搾取が常態化していた事実は揺らぎません。

こうした出会いを重ねるうちに、私は次のように考えるようになりました。歴史的正確性や語義への拘泥は、ともすれば衒学趣味や道学者然とした姿勢に陥りやすく、大切なことを見失ってしまう。何を言っているのか?よりも、歴史や社会が彼らに何を言わせているのか?(言わせないのか?)を知ることがもっと大切なのではないか──

今から65年前の1958(昭和33)年、『売春防止法』が罰則規定を伴って施行され、遊廓あるいは赤線と俗称された街は消えました。それ以前にも明治の開国以降、国内外から高まる批判によって、売春業者は反社会的存在として悪役を演じてきました。もっと遡れば「忘八」という蔑称にも突きあたります。売春業者に罪はない、なとど庇い立てはしません。ただし、これまでの廃娼あるいは反売春運動は、責任の所在を体制や構造に求めることなく、あまりにも業者個人ばかりに帰責させてきたのではないか──

1871(明治4)年から置かれた日本陸軍の鎮台は、1888年(明治21)年に師団へ改組され、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6師団から始まって、日清戦争(1894〈明治27〉年)、日露戦争(1904〈明治37〉年)を経ると、18師団にまで増設されました。海軍でも横須賀を皮切りに、呉・佐世保・舞鶴に鎮守府が置かれました。これらの兵営が置かれた都市、すなわち軍都では、遊廓がなかった場合は新設され、既にあった場合は拡充されています。

歩兵部隊の駐屯地には、遊廓がほぼ存在している

林博史「遊廓・慰安所」(『地域のなかの軍隊9』所収)

「軍隊に遊廓はつきもの」というのが、当時一般の通念であった。(中略)軍都に不可欠な都市インフラとみなされていた

松下孝昭『軍都を誘致せよ』

こうした世相当時、遊廓に反対することは、まかり間違えば反国家、反体制主義者と見做されるおそれがあったことは容易に想像できます。ためか、廃娼論者がその根拠として「国辱」すなわち「公娼制度は国際体面上の恥だからやめよ」との論陣を張った事実は示唆的です。もし娼婦の救済が目的ならば、対象が公娼制度に限定される社会運動ではなかったはすです。そしてこれは軍国主義下での限界だったのでしょうか?

戦後、1947(昭和22)年に開会された第二回国会で初めて『売春等処罰法案』が提出されたとき、法務庁は意図をこう説明します。

(赤線は)近く民主主義先進国と肩を並べて、国際場裡に地位を復活しようとする矢先におきまして、大いなる障害となる

第2回国会 衆議院 治安及び地方制度委員会 第46号(昭和23年6月28日)

1952(昭和27)年、『サンフランシスコ講和条約』が発効され、占領体制が終わり、国際社会での地位復活を急ぐため国連復帰を日本は突き進みましたが、国際連合は、本人の同意があっても買売春を目的とした勧誘や搾取、管理売春を禁じるなど一歩踏み込んだ条約を、先立つこと昭和23年に採択していました。国際社会へ復帰するには、赤線は黙認できない存在になっていたということです。ここでも娼婦の救済よりも、国際体面的な理由が前景化しています。

戦後の吉原にいた娼婦を取材した詩人・関根弘は、売春防止法の位置づけとその成立を急いだ政治家を指して、こう看破しています。

貧困の鎖からの解放の問題であるにもかかわらず、これでは「解放」を棚上げにした「棄民」である。

関根弘『明るい谷間』(1974(昭48)年)

戦後、軍国主義からの脱却を図ったとされる日本ですが、こと売春に関しては、娼婦は救済対象ではなく、国際的な〝活躍〟には足枷に他ならないとする主張は、民主主義を標榜しながら、なんら戦前と変わるところがありません。

売春防止法制定に尽力した神近市子はこうも述べています。

四千万の主婦の生活を守るために五十万と想定される売春婦の処罰はやむを得ない

神近市子『サヨナラ人間売買』

明治の〝ご一新〟、戦後の〝民主主義〟、ここには公娼制度(準公娼制度)を許容してきた体制や社会の慚愧の念はありません。

こう考え合わせると、明治から現代に続く社会は、娼婦はもちろんのこと、たまたま売春業者の家に生まれて、売防法後に何ら管理売春業と関わりのない家族にすら「犯罪者の子」というスティグマを背負わせてきたのではないでしょうか? 「女郎屋ではなく遊廓なのだ」との言葉は、出自に拘る悲痛な訴え以外の何物でもありません。

前述した、ご近所さんの「でもあまりそういうことは尋ねない方がいいよ…」という助言に対する違和感が、ようやく自分でも掴めてきました。これは、ご近所への〝配慮〟でありながら、同時に「犯罪者の子」という見方を肯定しているからです。もちろん、私のような部外者には到底分からない地域社会のご苦労があるに違いなく、配慮を軽視するつもりもありません。

が、自分の身に置き換えてみると、まったく別な想いも頭をよぎります。地域社会の中で親切ごかしに差別偏見を受け、親の仕事や自らの出自について忸怩たる想いを抱え続けながら半世紀ものあいだ生きてきて、あるとき親の仕事が好きだと言う人物が現れたら、どうするか?

見ず知らずの私、話し上手でもない私を邸宅に上げ、溢れるように饒舌に雄弁に語る理由は、社会が彼らを白眼視し、口を閉ざすことを強いてきた裏返しである。本稿のテーマである「なぜ元楼主は過去を、見ず知らずの私に話してくれたのか?」に対する私なりの答えは以上です。

※ヘッダー画像:元経営者ナミノさん(撮影・鈴木 Hassy 知幸、無断転載禁止)

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