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けい子さんのこと

以下は2015年に秋田県内の娼街を取材中に出会った女性けい子さんとの思い出を綴ったものです。2015年に書いたものに少し手を入れました。取材背景はこちらご覧下さい。


出会い頭から何故かお互いに笑顔だった──

夕暮れ時の光を狙い、一日市に現存する娼家を撮影したくて、最寄りの八郎潟駅で降りた。そうしてカメラの三脚を担ぎながら、遊里だった周辺を感興のままに歩いているときだった。

たまたま家屋から出てきた老婦と目が合った。私のことを知らないはずの老婦は笑顔だった。私も笑顔だった。まずどちらかが笑顔で、それにつられて笑顔になったのか、元からどちらも笑顔だったのか、今となっては分からない。ただ双方が理由もなく笑顔になっていることに不思議さを覚えたことだけは、はっきり記憶している。

笑顔を空振りさせるのは気が引けるような気がして、私は話すべき話題が定まらないまま声をかけた。天候など無難な話題を抜きにして、周辺の遊里について調べていること、明日は五城目の「松鯉」という旧妓楼へ行くのだということなど、普段はやらないような具体的で唐突な説明をした。
「私、松鯉だす」そう応える老婦の言葉の意味を解しかねて、『しょうり』という音に似た方言か、あるいは「私は松鯉を知っていますよ」程度の意味なのかと、少し混乱しながらも、話を途切れさせまいとして続けた。
「そうです。明日は五城目の松鯉さんへ行くんですよ。五城目にも遊廓がありましたよね?」と、老婦の答えを肯定しながら続けてみた。
「んだす。私は五城目の松鯉の娘なの」
再び意味を解しかねたのだが、言葉の通りなのだと知った。私が偶々出会った老婦はけい子さんといい、明日訪ねようとしていた五城目の旧妓楼、松鯉の息女の一人であった。

けい子さんは訳あって半世紀以上前に松鯉を離れてからというもの、他の誰にも自分がその家の出であったことを打ち明けなかったという。これまで誰にも口外したことのない生家の屋号が、たまたま出会った私の口から出てきたことに、けい子さん自身も驚いてしまったのだという。
「あや〜、ほんとぅに? いやいや、こんなこともあるもんだなぁ。夢でねぇもんなぁ」
家に通してくれたけい子さんは、何度もそう言って数分前の出会いを振り返っては、その度に驚いていた。
夕暮れから撮影を始めたために、辺りは既に暗くなっており、翌日改めて取材仲間の小松さんとお邪魔しようと、その日はお互いの感情が落ちついた頃合いを見計らって辞したのだが、短い時間にも多くのことを聞かせてくれた。

店に居た娼妓さんが好きだったという。優しく遊んでくれたこと、とても綺麗だったこと、また遊廓も好きで、宮尾登美子の関連作品は読破するほど文学好きなことなども話してくれた。けい子さんは家を出るときに、娼妓たちを写した当時の写真をアルバムから抜いて持ち出してきていた。
「身体を売りながら、日陰の人生を歩んだこの人たちはどんな想いで生きていたのかなぁ、そう思うと愛しくて…」
けい子さんの明瞭な言語化は老婦のイメージからかけ離れたもので、驚きながら次の言葉を聞いていた。
「誰かが見たいっていつか現れるんでねぇかと思って、捨てずに持っていたの。でもそれが50年も経った今頃になるとはなぁ」
そう言ってけい子さんは笑った。私も笑った。

取材者の厚かましさを捨てきれない私は、店に居た娼妓さんの姿形、服装、様子などはどうだったのかと、訊き方を変えてしくこく聞いた。
「綺麗だったよぉ〜!」
その度にそう答え、けい子さんは在りし日を思い出すのか、目はうっとりとなった。私の質問は果たせなかったが、今なお恍惚とさせる思い出が老婦の中に生きていることを知れただけで、胸が一杯になった。

写真の中の一人は群を抜いて美しく、源氏名を聞くと「カツヤ」という一番の売れっ妓の娼妓だった。けい子さんは、名前出してごめんなぁ。でももういいよなぁ?と写真の中のカツヤさんに謝った。この時、本書の裏表紙へカツヤさんの写真を配することを心に決め、けい子さんにその許しを乞うた。
「いいよぉ。でも優しい人だったから、悲しい扱い方はしないでな」と言い、半世紀のあいだ保管してくれていた写真を私にくれた。私に渡そうとするけい子さんの手指の動作にうやうやしさはなく、まるで他愛ないものをあげるのと同じであることに戸惑った。一人の女性が生涯紡いできた、かけがえのないものが突然、自分の掌に舞い込もうとしている。この日のためにけい子さんが写真を保存してくれていたのだと私は疑わなかった。もし疑えば、けい子さんの生き方にも疑いが及ぶ気がした。

談笑の途中で、私は「遊廓」というものが好きな人間であるということ、全国の遊廓を歩き回って調べたり、撮影しているのだと説明を付け加えると、けい子さんの驚きは増した。
「こんな人が来てくれるとはなぁ…。父さん、おっかさん。ほら、こんな人が来てけたよ」
といって鼻声になったけい子さんは、ご両親の遺影に手を合わせた。遺影は額装されず剥き出しのままで、反り返った写真はどうにかベッドに立て掛けてあった。私も手を合わせたが、これまでの不明の恥ばかり募り、祈る言葉が見つからなかった。
売防法前の松鯉の屋号は「笑里(しょうり)」といい、GHQの指示により変更されたという。
「実家離れてから「しょうり」って言って貰えたの初めてだぁ。私にとっては、今でも笑里なんだぁ。あそこが天国だぁ」

けい子さんがくれたカツヤ妓の写真(無断転載禁止)

そんなことがあってから半年後、再び小松さんと一緒にけい子さんを訪ねた。小松さんに訊き取りを任せっきりだった私は、取材目的ではなく、ただけい子さんに会いたかった。

出会ったその後、けい子さんは持病から入退院なさっていた。恐れてはいたけれど、入院中の介護で身の回りのことを他人に委ねたせいでか、最初の出会いの時はほぼ感じることのなかった認知症が、今回はかなり進んでいた。知古の男性に介抱されながら、同居していた。
最初の出会いでお互いに感激し、去ってゆく私の乗った車にけい子さんはいつまでも手を振っていた。その僅か2〜3時間後にはお礼として電話を向こうから掛けてきてくれ、また会おうね、と再開を約束して電話を切った。「豪くん、」と呼びかけるその声には、異性に話しかけるときの少女が持つ恥じらいを含んでいた。今こうして再会しても、あまり嬉しい感情を見せないけい子さんの様子は、認知症の進行を明らかにし、私を暗くさせた。

小松さんが訊き取りを始めると、わずか半年のブランクにもかかわらず、けい子さんは前回より格段に思い出すことが困難になっていた。そんなとき、知古の男性が「仕方がねぇ。歳だから呆けてしまったんだぁ」と挟む。
思い出そうと努力するけい子さんの思考は、そこで途切れる。労りの言葉であることは分かっていたが、その言葉は敏いけい子さんを深く傷つけていた。
「ごめんなぁ。思い出せなくて…。馬鹿になってしまって、もう何にも思い出せねぇんだ」

自身の認知症を自覚する哀しみに、その場に居たたまれなくなった。最初の出会いの時は、相応の所作は見受けられたものの、記憶力も良く、こちらの質問に対しても時折ユーモアなども交えて返し、かつて文学少女だった片鱗を見せてもくれたのに。

何度かこのやり取りが続き、けい子さんは
「もう帰ったらいいすぺ」
と言い放った。痴呆の進んだ老人が見せる移り気なところや、気分のムラがその言葉を出させたに違いないが、けい子さんは深く傷付いていたのだと私は思う。小松さんが運転する帰路の車中、言葉が見つからない私は少し苛立っていた。

私は、今回の遊廓調査を象徴するようなエピソードを、エッセイめいた文章として綴り、本書へ添えるつもりでいた。けい子さんとの最初の出会いは今回の秋田調査を超えて、これまで遊里跡で出会った経験の中でも最も忘れ難いものであり、また本書へ添えるものとして、これ以上ないと感じていたのだが、再会したけい子さんの様子を見たときから、このエッセイの結末がハッピーエンドで終えることができないことを知った。

初めてけい子さんと出会ったとき、けい子さんが若い頃の写真を見せてくれた。10代の頃、20歳の頃。それらは同時代の多くの女が持っていたであろう面立ちよりも大人びていて敏かった。時代に比して敏すぎたのか、「女が勉強しても仕方がない」という時代の言葉に反発したけい子さんは本を読み、手に職を付けようと看護学校の道へ進んだ。

最初の出会いのときに居たけい子さんは、老婦となっても目の奥に好奇心を漂わせていて、見知らぬ私をこだわりなく迎え入れてくれ、臆さず隠さず多くのことを話してくれた。そんなときのけい子さんの好奇心が笑顔を童女のようにも見せていた。かつて周囲の誰より大人びていたはずの彼女だったが、その幼さは老婦となった今こそ映えていた。

再会したけい子さんの目には好奇心が消えていた。それでも面立ちは幼いまま残り、写真の中にあった昔日の顔に還っていた。(了)


※ヘッダー画像・10代の頃のけい子さん

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