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鉄より熱く、三日月より冷たいものは、難しいけれど

こんにちは、ゆのまると申します。

本日は焼肉エッセイをお届けする予定だったのですが、予定を変更して別のお話をします。

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「さ、刺された……」

昨日、私がNetflixで『ビューティフル・マインド』を観ていると、息も絶え絶えな夫が、そう言いながらリビングに入ってきました。

夫をぽかんと見つめる私。もちろんどこも刺されてなんかいませんし、体はぴんぴんしています。なんだなんだと話を聞いてみると、ひょんなことからパンドラの箱ーー13年前の自分が書いた小説ーーを見つけて読んでしまったとのことでした。

なんだそんなことかと安心していると、「そんなことなんかじゃない」と恨みがましい視線を向けられました。誰か亡くなったか、追っているコンテンツがサービス終了したかと思ったわ。

夫からは、大学に入る前の話はあまり聞きません。子供の頃に好きだった遊びとか、それこそポケモンとか遊戯王のことは聞きますが、苦労して中学受験に受かって通っていた学校の話となると、途端に口をつぐんでしまいます。私も中高時代にあまりいい思い出がないので、気持ちはわかります。鬱屈して歪んでいた学生時代。そんなところまで、似たもの夫婦なんです。

しかしよくよく話を聞くと、ショックを受けたのは「中二病設定で文法も構成もめちゃくちゃな深夜に書いた小説だったから」ではなく、そこに執念と呼べるほどの「書かせろ」「伝えさせろ」「吐き出させろ」という熱意と情熱を感じ取ったから、だそうです。

あぁわかるな、と思いました。文章自体は未熟かもしれないけれど、そこには痛いほど真っ直ぐな気持ちがこもっている。「気持ち」なんて生易しいものではありません。いろいろなものが混ざり合って、自分の中に渦巻く、もはや「黒」とも形容できないもの。

その量は夫の足元にも及びませんが、私もこれまで様々なものを書いてきました。ただ「書く」しか方法を知らず、自分の中に生まれる全てを書き散らしていた、痛くて眩しい「あの頃」があります。


中学生の時。授業で使うB5ノートの他に、リング型のA5ノートをいつも持ち歩いていました。その1ページ目に記したのは、「涙」をテーマにした詩。特に形式や作法を勉強したわけではありませんが、私が選んだのは「詩」でした。

あの頃の私は特に、「誰にも必要とされない」気持ちを強く抱えていました。

家族の顔色を窺って過ごす家は居心地が悪く、学校の友達に話題を合わせて愛想笑いをする日々。「もしも、私かもう一人が死にそうになっていたら、誰が私を選んでくれるんだろう?」という、何の根拠もない暗いイメージに取り付かれていたのです。

私が詩として描く世界は、大体壊れかけているか、雨が降っていました。恋愛をテーマにしたものも多かったのですが、告白が受け入れられた喜びも、つないだ手の温かさも知らない当時の自分には、恋の甘さではなく、破滅していく姿しか描けませんでした。

授業中に、帰宅後に、寝る前に。様々なイメージが浮かぶたび、それを逃さないようにページの端にメモをして、ひたすらそれを広げていく作業が私の癒しでした。携帯を買ってもらってからは、「フォレスト」で簡単なホームページを作って書いた詩をアップし、フォントや画像を用いてその世界を形作っていくのに夢中になりました。

人に話すよりも、自分で作って吐き出す方が、性に合っていたようです。「傷ついても、書けば大丈夫」という謎の安心感がありました。


結局あの後、詩を書くノートは二次創作の妄想を書き散らすネタ帳となり、だんだん書く側から読む側へと変わっていきました。人に言えない思いは日記として残すようになり、詩として書いたのは19歳の頃が最後です。

引っ越しの際に日記は全て持ってきましたが、あの頃のノートは今でも学習机の引き出しにしまったまま。なんとなく、そこにあるのが正しいような気がしたのです。

10代の頃に作ったものは黒歴史として語られることも多いですが、私はそうとは思えません。もちろん、中には絶対読み返したくないものもありますが……。

理不尽だ、満たされない、と感じたことに対して生まれた怒りや悲しみ。そうしたものを形にすることが、当時の自分には必要でした。

30を目前にした今となっては、そうした理不尽に対して、なんだかうまく対処する方法を覚えてしまったような気もします。違う角度から見てみたり、「そういうものだ」と諦めてしまったり。生きていくうえで必要な技術だと言われればそれまでですが、あの頃の詩のようなものを、今はもう書くのが難しいと思うと寂しい気持ちにはなります。いくつになっても創作する人はいますから、きっと「作りたい」という気持ち次第なのだとは思いますが。

それでも、「今」しか書けない気持ちはある、ということは変わりません。

もともと日記をつけていて感じていたことではありますが、1週間前、いや昨日の自分ですら、現在から見返すとまるで別人のように思えます。人の気持ちというのは本当に変わりやすくて、心が動いたその瞬間にしっかり掴まえないと、すぐどこかに飛んで行ってしまうのです。

「今の自分を記録して何になるのか」と問われれば、私は「面白いから」と答えます。それに、全く違うように見えても、もっと長い目で見れば一貫した何かがあるかもしれません。


詩から日記へ、また違う何かへ。形式は違えど、今後も書き続けていこうと思った出来事でした。


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