「名前を付けて保存しますか?」
5月24日。今日は、ゴルフ場記念日らしい。1903年、日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」がオープンしたことに由来するそうだ。
しかし私にとっては、なぜかずっと覚えている、初恋の人の誕生日だ。
以前この記事にも書いたが、簡単に話すと、保育園から高校まで一緒の幼なじみで、淡い恋心を自覚した時にはすでに手の届かない存在になっていたーーそんな相手だ。
小学生の頃、クラスに「学級新聞」があった。図書係や生き物係に並んで「新聞係」というのがあり、月に一度手書きの新聞を作るのが仕事だった。今思えば、なかなか大変な係だ。
新聞に書かれるコーナーは決まっていて、「今月の行事」や「先生からの一言」の中に、「今月お誕生日の人」というのがあった。5月24日。彼の誕生日もそこで知った。
とはいえ、「お誕生日おめでとう」と言ったことなんて、おそらく一度あるかないか。手帳にもGoogleカレンダーにも記録していないのに、最後に会ってから10年近く経った今も、今日になると「あ、誕生日」と思い出す。
そういえば、ヤツの誕生日はいつだったろうかと考えてみる。夫と再会する前に遠距離恋愛していた、2つ上の彼。
ところが、思い出せない。夏だった気はするが、7月15日は中学時代の親友の、8月27日は同期の誕生日だ。あれれ。一応、4回はお祝いしたはずなんだけどな。
せいぜい数年前のことなのだが、どうやら私の中で、彼に関する記憶はまるっと「ごみ箱」に入れられているらしい。覚えているのは名前と好きだったアーティストくらい。いつもレストランで頼んでいた彼の好きなお酒も、履いていたスニーカーのメーカーも思い出せない。
それこそ、彼が住む地で就職しようかと悩むほど入れ込んでいた相手だったが、お互いに依存して、終わりの方は散々だった。最後にお情けで一緒に行ったライブのチケット代は結局払ってもらえなかったし、もらった手紙もプレゼントも写真も全て捨てた。
「男の恋は『名前を付けて保存』、女の恋は『上書き保存』」とはよく言われるが、時にはまるごと「ごみ箱」に入れられることもある。自然と削除されるのを待つ間もなく、自ら「完全に削除」することも。
私は、恋多き乙女だった。友人に「好きな人がさ」と話すと、「どの人?」と返される始末。アラサーになって、「だった」と過去形で書けるようになって本当によかった。
そのほとんどは私の片思いで、何も始まってすらいない相手だ。しかしそんな相手との思い出こそ、しっかり「名前を付けて保存」されていたりする。
共通の話題を増やしたくて、ブックオフでサザンのアルバムを買ったこと。ルノアールで『シュタインズゲート』の世界線について語り合ったこと。前日の夜から、服やネイルやアクセサリーについてあれこれ悩んだこと。
そういった懐かしい記憶や楽しい思い出は、たまにフォルダから取り出して眺めてみたりする。写真もメールも、連絡先も残っていない。実際に手元に残っている物は、もらった名刺1枚。それ以外は全て記憶だけという、私の秘密のフォルダだ。
夜中にみっともなく罵りあったことや、クリスマスに泊まったホテルで並んでテレビを見て終わった虚無感。そうした生々しい事実で塗りつぶされることなく、ただ綺麗で楽しかった頃のまま残っている。始まらなかった恋は終わることもなく、私が削除することを望むまで、ただそこにあるのだろう。
人間の脳の記憶容量は、約1PB(ペタバイト)といわれている。
ペタバイトなんて初めて聞いたが、調べてみるとテラバイトのひとつ上の単位。市販されている3テラバイトの外付けHDDで換算すると約333台分という、およそ個人で扱うことのない大容量だ。2日前に起きたことも忘れている私は、せいぜい、ファミコンと同じ40キロバイトくらいしかないような気もするが、どうやら標準スペックとして巨大な記憶容量はあるらしい。
目に焼き付けていたいのに忘れてしまうもの、早く忘れたいのにいつまでも脳裏に浮かんでしまうもの。ヒトの記憶はなかなかどうして、うまく処理されないことが多い。
それでも、始まりもしなかった淡く美しい思い出たちは、時には圧縮すらして、名前の付いたフォルダとして残り続けるのだと思う。
(何一つ、嫌なところを知らないままで)