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私が生まれてきた意味は

 ヘッダーの画像は私の生まれた愛媛県、四国の上空からの写真である。飛行機からでもこんなにも田舎だとわかる写真が撮れる。

 私は愛媛県の盆地に生まれた。そこから神戸へと引越し、自らの「幸せ」と他人の「幸せ」を追いかける旅に出る。

プライベートは充実していた。

 幸いにも僕は、充実した学校生活、プライベートを送っていた。学校生活の方は無理やり手に入れた形に近いが。
 仲の良い友達が数人おり、クラスでも友達は多く、何不自由ない生活を送っていた。
 少し変わり者だった私は数学が大好きで、小学校高学年の頃から数学に打ち込んでいた。主に代数学である。私にとってはこの瞬間が一番「幸せ」だった。中高の成績、受験勉強さえすれば、好きに数学ができる。例え、親や先生に「テスト対策をしなさい」と言われても、数学なら隠れてコソコソできる。テキストから数個の定理を抜き出し、その証明を考えるだけで1日が終わる。僕にとってはそれがとても「幸せな」ことだった。

好きすぎた

 僕は数学を好きすぎていた。大学数学の本1冊で数百時間もプレイできる。手計算の答え合わせをするために、趣味で行っていたプログラミングも活かした。
 数学はまるで僕にとってレゴブロックのようであった。あるルールが与えられ、その中では自由な発想をできる。時には、そのルールさえ壊して、自由に自分の好きな空間を定義できる。目の前の対象を数学の世界に落とし込めた時と言ったら、もうなんとも形容できない喜びが込み上げた。

 ある日数学から振られた。大学の理学部を受けたが落ちてしまう。純粋にショックだった。僕にはもう数学が向いてないとさえ思った。実際よく年は化学系の学部を受けることになる。

 それでも僕は数学が好きだった。偶然読んだ行政書士の本から法律が数学で表せる言語であることを考察した。この考察は未だ続いているが、おそらくこの考えは間違っていない。

 化学系に入っても数学好きは衰えず、新たな数学を学び、それを化学へと応用していく。設計にも応用していく。パーツとパーツが存在すれば、そこには数学的構造を導入することができるのである。

 そして、数学の力をプログラミングに与えて、解けない方程式を使った危機管理システムを、解ける方程式に変えて予測する戦いが始まる。

 脳が悲鳴を上げた瞬間だった。

それでも

 脳が悲鳴を上げて倒れてしまった後も数学を続けていた。世界は数学で記述できる。そんな哲学者に出会った。
 これが僕の転機だった。
 代数が僕の主な戦場だったが幾何や解析にも力を入れ、社会構造を数学的空間に落とし込むことを試みる。
 大量の統計が必要なものとなったが、それが完成した。膨大なソーシャルネットワークに時系列を加え、「関係性」を定義し、リカレント的に変化を追いかける。
 当時はやっていた機械学習を僕は習得していたため、コンピュータを使えばこれが解ける日が来ることを確信していた。そして、自分の中の悲しみやストレスと対話し、根本から解決する策を練る。
 その過程で自分の「幸せ」について定義し始める。自分が嬉しかったことや幸せに感じたことに矛盾しないようにパズルを当てはめ、これも構築した。

自分の「幸せ」とは?

 どうやら自分は他人の幸福で成り立っているようだった。
 自分の幸福は、殆どが他人依存だった。
 ならばやるべきことは一つ。他人を幸せにして、自分を幸せにする。これにしか目がなかった。

 まるで、数学に取り憑かれたように、構造を捉え、条件を出していき、モデリングをしていた。色々考えるより、数学の言葉で語る方が僕には楽だったのだろう。

 まず、身近な人を幸せにすることを考えた。

 法律の知識を活かし、この結論に辿り着く。他人の価値観を集合で把握し、ベストな問題解決を与える。
 問題策定 → 価値観把握 → 問題解決
このフローを構築し、実践し、修正し、を何度も繰り返した。様々な人の問題を解決していき、また、信頼して相談相手になってもらえるよう、心理学も学んだ。

 そして、見通しの良くなった頃、次の地点に立つ。

社会構造を変える旅

 僕は無知ゆえに搾取されていく人を見るのが嫌でたまらなかった。だから僕は教育を学ぶことになる。
 ここで法律と機械学習を用いた、法教育プロダクトを思いつく。プロトタイプを設計し、穴埋めの状態にしておき、プログラムならいつでも用意できる状態にした。
 自然言語という、人間の価値観の集合から意味の生まれるーー言い換えるならば言語ゲームの上を漂う要素を扱った、構造との戦いである。

 後にchatGPTが公開され、それはさらに容易なものとなる。

 が、それは未だ完成していない。さらに大きな敵と戦うことになるからである。

データマネジメントとの出会い

 データがあればなんでもできる。そんな時代になりつつあったとき、僕は就職することになる。転機である。
 僕はデータサイエンティストとして、機械学習プロダクトの保守、強化をすることになる。ただ一つ、このポジションについてから気がついたことがある。

 このデータでは正確な値は出せない。

 データをいくつも見てきた身からすると、このデータでは欲しいものは得られないと気がついた。そして、欲しいものを手に入れるため、データ集めの旅に出る。

 これがデータマネジメントとの出会いである。

 損失を防ぐためのデータ集め。逸失利益を防ぐためのデータ集め。利益を更にとりにいくためのデータ集め。

 データとは最もシンプルな数学的構造を与えることのできるものである。そこには事実に反しなければ自分の解釈を与えて、データ収集の戦略を立てることができる。まるでさながら、問題解決を構造化していたときのように。

そして僕は

 そして僕はデータマネジメントの虜になる。でも僕は忘れてはいない。僕の幸福は他人の幸福からくる。データマネジメントという体系を通して、より強固な、社会構造をより良くするプロダクトを作れるはずだと信じている。

 そして、それを実践にうつし、仕事の傍ら、人の手助けをしている。

 これは仕事でもプライベートでもない。私が生まれてきた使命そのものであり、天職であり、死ぬまで私が戦い続ける目標だろう。そこにゴールはない。人を幸せにすることなんて、なんぼやっても罪になりませんから。

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