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締め切りがある時、ない時。

 某関西の豚まんが有名なお店のようなタイトルをつけてしまったが、例の如く、何を書こうかまったく決めないまま、こうしてペンを走らせている。きっと、なんらかの気づきがあったが為にこのようなタイトルをつけたのだろうが、その気づきが何だったかまるで思い出せない。

 頭の中はサルバドール・ダリの『記憶の固執』のような状態だ。ふわふわとした記憶と、あいまいな出典ばかりの記録と、その他の雑多な何かがひしめき合ったまま、稀に作品として出力される。そういった状態で日常を生きているから、よくわからないことをよくわからないままに始めようとして、周囲の人に「あなたはどこへ向かおうとしているの?」と真顔で質問されてしまうのだ。客観視すると、たしかに、わたしは何をしているのかわかりにくいし、普段会わない人にはロボットか何かかと思われるのは無理もないかもしれない。

 どうもわたしからは感情が浮かびづらいらしい。徹底的に文章から自分自身の癖を抜くように心がけていたこともあって、わたしの色をつけようとすると、なんとも言えない気持ち悪さを抱く。それゆえに、癖のある部分を削ぎ落として、最低限の情報だけを伝えようとする。こうして、AIが書いたと錯覚される文章が誕生するわけだ。よくよく考えてみると、10年前も同じことを言われた。

 そんな言葉との向き合い方が、お仕事では良い方向に働くことがある。癖がない分、インタビューやレポートなどの際は相手の個性がしっかりと浮き出てくるので、そこは評価されているそうだ。ただ、個性が必要なメディアに足を運ぶと、あっという間に没個性の仲間入りをして、そこから迷宮に入り込んでしまう。締め切りのないメディアに顔を出した時もそうで、締め切りがないとどうしたら良いかわからなくなる。

 結構、わたしは締め切りに生かされている。このエッセイだって、そうだな。毎日締め切りがあるからこそ、何かしらのテーマと向き合っている。

 創作家の宿命だと思っているのだけども、締め切りは命綱のような部分が多分にある。わたし自身の制作でも常に締め切りを設けているし、それは確実に守るようにする。守れない場合は、「この作品には縁がなかったのだな」と制作そのものを止めてしまうこともあるし、お仕事ではスケジュールを詰めてでも締め切りは厳守する。

 プロデューサーとして企画を立てる時は、筆が遅い方の余白も含めてスケジュールを組む。だが、わたしが作り手の時にプロデューサーやディレクターに迷惑をかけることは絶対にしたくないし、そういった事態が起きると次の仕事は来ない。もっと筆が速くて能力の高い人に椅子を奪われてしまう。この世界はそういった世界で、わたしの椅子は常に誰かが狙っている。見えない椅子取りゲームが毎日のように行われているのだ。

 しかしながら、そういった世界で信頼を掴み取ると、ある程度は自由に物事を動かせる。話を聞いてもらえるし、一定の部分は対等に物事を進められる。会社員だと明確に上下関係が生まれるから、よほど出世街道を駆け上り続けるか、今いる会社を個人的に買収しないことにはその関係性を逆転させるのは難しい。経営者は必ずしも雲の上の存在ではないが、やはり一線を画するものはある。生活を握られている感覚は常に持っているよね。

 この先もおそらく会社員として仕事をしながら、個人的にお仕事をいただきながら生計を立てていくことになるが、いずれはわたし自身の会社か事業を興そうと考えている。可能な限り、銀行からお金を借りずに、身の丈の範囲で着実に積み上げていく。20代はそういった将来への足場を作る期間だと捉えていて、今後も同じように生きていくのだろう。こうして、わたしも大人になっていく。ただ、締め切りがあるにせよ、ないにせよ、大切な部分はきちんと守り抜いていく人であり続ける。

 普段は温和に生きたいし、ずっとそう。でも、芯はなくしちゃいけない。水を飲みながら、そんなことを考える夜。明日から、また。転職活動はこの二週間が勝負だ。

 2024.7.21
 坂岡 優

最後までお読みいただき、ありがとうございました。 いただいたサポートは取材や創作活動に役立てていきますので、よろしくお願いいたします……!!