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フードコートに眠る悲しみについて

ショッピングモールのフードコートが苦手だ。
人が多くてさわがしいから、というのもあるけれど、それだけではない。
私はいつも「どこかで誰かが料理をぶちまけるのではないか」と気になって、安心して食事に集中できないのだ。

そのシステム上、フードコートではどうしても事故が起きやすい。

店舗のカウンターで料理を注文すると、たいてい小型の地雷みたいな装置を渡されて、席を確保しながら出来上がりを待つ。装置から呼び出しの音が鳴ったら、カウンターで料理を受け取り、トレイに乗せて再び自分の席まで戻る。
この自分の席まで戻るというのが、なかなか危険である。多くの人が行きかう中、トレイを水平に保ったまま、テーブルのせまい間をぬっていかなければならない。

周囲には、無邪気に走り回る子どももいる。
彼を制止しようと慌てて追いかける大人もいる。
突っ込んでくる子どもを警戒して、たどたどしい足取りで料理を運ぶ子どももいる。
彼に気を配り、ときおり立ち止まっては振り返る大人もいる。
その予測不能な動きとスピードの緩急に対応するのは、至難の技というほかない。

人とぶつかって料理をぶちまけるとか、まわりに気を取られて自分で料理をぶちまけるとか、そういった悲劇が今日もどこかのフードコートで起きている。
誰が悪いということではなくて、もともと悲劇がうまれやすい空間なのだ。
少しの気の緩みが、楽しみにしていた料理をダメにしてしまう。


そんな悲劇の現場に居合わせるのは、本当に心苦しい。
ダメになった料理を思い浮かべるだけで悲しくなる。

無惨に飛び散ったラーメンのスープと麺。
床に逆さに突き刺さったソフトクリーム、かしげたコーン。

食べられたはずの食べものが食べられなくなったときにしか湧き上がらない、特有の喪失感があると思う。
あるべき形を崩した食べものの亡骸が、その切ないビジュアルが、何ともいえない感情をかき立てる。なにかの間違いで時間が巻き戻らないだろうかという思いでいっぱいになる。

たとえ10万円のパソコンを落として壊してしまっても、こんな気分にはならないだろう。「ちくしょう、最悪だ」とは思っても、これほどに胸を突くような心苦しさはない。

食べものにはなぜか独特なパワーがある。
食のよろこびというものが、生得的で普遍的な価値をもっているからだろうか。


フードコートに、あっと声が響く。

見ると、さっきまで弾けるような笑顔をしていた男の子は、もうどうにもならなくなってしまったカレーライスを前に座り込み、天を仰いで泣き出している。
両親らしい二人が駆け寄ってくる。
周りの人々は、それをどうしてあげることもできない。少し離れたところでひととき動きを止めて、彼に憐憫の情を向ける。

ああ、かわいそうに。
食べものを落としてしまったのね。
あんなに楽しみにしていたのに。

葬式みたいだ、と私は思う。

食べられなくなった食べものから呼び起こされるあの喪失感は、生きものの死に直面したときのそれにとても近い。
物質的にはそれほど違いはないはずなのに、魂がすっぽりと抜け落ちてしまって、抜け殻だけが残っている。

もうどうにもならない。
時間は戻せない。

ダメにしてしまった原因が自分にあったのなら、なおさらつらい。
私自身もそそっかしい人間だから、小さい頃から幾度となく食べものを床にぶちまけては、独特の喪失感と罪悪感を味わってきた。

わかるぞ少年、悲しいよな。
今度からは精一杯気をつけようぜ。

私もまた少し離れたところから、人知れず彼にエールを送る。


最近はフードコートへ行く機会もほとんどないのだけれど、それでも何かのついでで数年に一度は利用することがある。

悲劇を起こさぬよう念入りにトレイを持ち、脇を締め、ゆっくりと中腰で水平移動する私の歩行は、いつぞや話題になった二足歩行ロボ・ASIMOのごとき奇怪な動きに見えるに違いない。

席についても、今度は周りが気になる。
食べていても落ち着かない。

カウンターで渡されるあの呼び出し装置が、どこかの席でけたたましく鳴るのが聞こえると、私は思わずそちらに注意を向ける。

地雷が起動した。
あの子が自分で取りに行くのか。
そこは結構せまいから危ないんじゃないか。

いつの間にか私はすっかり箸を止めている。
今度はまた別の地雷が起動して、視線はそちらへ奪われる。
私は咀嚼を止めている。

みんな無事でいてくれ。
悲劇よどうか起こらないでくれ。

そうしているうちに、無事に帰還したはずの私の手元のラーメンはスープを吸ってのび、ソフトクリームは溶けてしまうのである。
私は少しだけ悲しい思いをする。

フードコートは難しい。


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