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この人はもっと別の人であるはずだ、と思われる危険

私がやっていることで人にどう役に立てるのか。そんな視点で発信している。が、同時に、自分自身のことを知ってもらうのも、大切と考えて、自己開示を行なっている。

その自己開示の仕方が間違っているのだろうか、と思うことがあった。最初のTwitterのように、アドバイスをいただいたのだ。

普段、私は周りの方の意見は聞いているようで聞いていない。自分に都合のいいことだけ取り入れて、あとは「貴重なご意見ありがとうございました」だ。

ではなぜこのアドバイスが引っかかったのか。セミナーへの申し込みがないのは、私から学びたいという人がいないからだろうか、と私の方から相談したからだ。そしてその答えが、私という人間が本当に存在しているのか、とすら思う存在感だと。実際に会ってみたら面白いのに、と。

どうしたことだろう。正直なところ困っている。

Twitterで毎日お弁当の中身を投稿しているのに、生活感がない?それが目にふれにくい?立派なことを書いてる?特に立派な人間に見せようと思って書いたことなど一度もない。事実を書き、それに対する想いは書くけれど、本音だ。

私がたてた仮説は2つ。

・アドバイスをくれた方の中には「別の私」が見えている。

・本当に私は発信の中に出てくる人間とはかけ離れた人間である。

アドバイスをくれた方の中には「別の私」が見えている。

実際にお会いしたことがある人である。その方が見えている私が「別の私」である可能性はある。なぜなら、その方は私が発信している相手「こぢんまりサロンをしたい」とも「小さな経営をしたい」とも思っていない人だからだ。

話す相手が違えば、話題も違う。立場も違う。知人に対して突然「主役力とは」なんて話はしない。

怖い可能性としては、私が話している言葉の端々に、私自身が気づいていない全く違う私がいて、それをこの方が感じ取っている場合だ。

そうなると、私に知らない自分のことは書けない。自己開示の場面でも、自分が知っている自分しか書けないのだ。

本当に私は発信の中に出てくる人間とはかけ離れた人間である。

こちらの可能性は、「本音を書いていい」と言われたところから、想像してみた。小さなタイトルにしてみたものの、実のところこのパートは全く身に覚えがない。

発信において、リアルな生活で言わないようなことまで正直に書いていたりするのである。もちろん、あえて書かないことはある。それは本音というより、発信においてそれを書いても、読者の方に何の得もない話だから書かない。

この人はもっと別の人であるはずだ、と思われる危険

アドバイスを求めてみてもTwitterでは特にリプは付かない。

それは当たり前の反応だ。Twitterを含め全ての発信に関して言われたことなのだから、Twitterでしか繋がっていない人が何を書けばいいといのか。我ながら、ちょっとわびしいことを書いた。

noteを書く前に少し気持ちの整理をしたかったのが、本音だ。2日間考えてみて分かったことは、結局のところ、アドバイスをくださった方の「主観」であり、それが「事実」であるかどうかはわからないということ。

そして、世の中には私のことを「立派なことを書いてるけど、ほんと?」と感じる人が存在するということは「事実」だということ。

それが私にものを教わりたいと思えない理由かどうかは不明だが、何に気をつければ、そんなイメージを持たれないのかわからない。もっと別の考えや本音があるだろう、と推測されても、ないものはないのだから出てこない。この言葉に振り回されるのは、危険だと判断した。

その人から見た私になりたいわけではない。居もしない「別の私」を探したところで会えるのではなく、「作り出す」のに近いはずだ。仮に「別の私」がいるとしたら、無理をしなくてもそのうち会えるだろう。

こうして今回も「貴重なご意見ありがとうございました」だ。

発信のあり方に関しては、日々変わっていく。でもこぢんまりサロンや小さな経営がしたいと思っている人に対してラインを発信している。登録してもらえると、嬉しい。





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