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わたしたちは揺らぎのなかにいる

今年も年末ですね。はやいものです。
昨夜の『鎌倉殿の13人』の最終回を観ました。このドラマが珠玉だったのは、主人公が正しさより悪寄りの秩序を最期まで貫き通したところにあるかなと思います。日本人が古来より重んじてきた体制秩序というものに対する主要キャラクターから脇役のそれぞれの姿勢というか立ち位置を鮮明に打ち出しつつも、生きることはそういうものだとかいう簡単な締め括りにせず、かといってお涙頂戴にも逃げずにしっかりと描ききった点。

実際、ドラマのなかでの義時は政子や泰時の放つ周囲の光のなかで完全な悪人にはなりきれなかった。それこそ運慶の言う、「ひとは悪と善の間で揺らぐからこそ面白いのだ」というあの台詞こそ、この歴史物語の骨子だったように思うのです。

その流れで、というより、これはもう何年も前からの自分の中の一番大きな問いでもあったのだけれど、今年はわたしにとっても理想と現実、そして世俗的な気分とのバランスの取り方について深く考えさせられる一年でした。
普段から、社会がこうなってほしいとか、自分がこうありたい、という理想はいつもかなり高い気はしているのだけれど、現実はおいそれと出来ない。出来ないばかりではなく、真逆の感覚(誰かを恨んだり苛々したり怒ったり)に満ちて目の前が見えなくなることもしばしば。
そのたび落ち込み悩んで、立ち止まっていました。

でも、ここ数年そんなことを繰り返しながら、少しずつ、いや、別に人間、それでもいいのではないか(口に出せば当たり前にも聞こえるようなことだけど)と、なんとなく思うようになった。この降り幅の大きさがあるがゆえに、例えばそれをクリエイトすることに昇華するなら、その間にある自分なりの何かを、自分なりに見つけて紡いでゆけばいいのではないか、と。

人は大体が歪んでいるし、それほどただしくはない。
だからこそ、そのただしさとただしくなさを行き来するなかで、悩むからこそ得られることは実はとても多い。ただしくないことを行ったときの悔恨は痛手として永遠に残るし、揺らぎのなかでつかむ言葉はある意味豊かで、とても人間らしい。

人が火や蝋燭の揺らぎを見て心が落ち着くのは、その揺れ自体を、豊かだと思う性質によるのかもしれないです。だから、わたしはこれに関してはただしくない、ただしくないけれどもこれを許す、という思いを抱きつつも、常に正しさに憧れ、追求したいと願うこと、それが一番大切なのではないか。
そしてもしかすると、それはいまこの混沌とした社会のなかで「正しいと信じすぎることで起きる暴力」を避ける上でも、不可欠な視点であるのかも、しれません。


(最後まで読んでくださり、有り難うございました。)