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ADHDの自覚なかった時の話。


おはよう
ADHDとASDのユウです。

ぼくはADHDとASD分かったのが23歳の時です。
なので23歳までどんな人生でどんな生活だったのか書いていきます。

ぼくと似たことをしている人や共感する人がいたら病院と市役所行って障害年金を貰うことをお勧めします。すくなくともぼくはそれで少し心が軽くなりました。

では振り返り

小学生


ぼくは両親が共働きだったのでよく一人で遊んでいました
。仮面ライダーとかポケモンの人形がめちゃくちゃあって、ぼくの遊びはいつも頭の中でした。戦い、裏切り、愛し合い、そして勝利する。
空想が大好きで人からユウはいつもボーッとしていると言われました。
失敬な。ぼくは誰よりも頭を使って空想の物語を紡いでいるというのに。

そんな自己完結型のぼくは周りに不満はあまりなかったように思えます。
人よりも不器用で上手くいかくても空想の世界にダイブすれば満足してしまうから。

具体的にいうと空手と英語とスイミング教室と家庭教師をしてもらいましたけど、続きませんでした。

色々やってるじゃん!と思われるかもしれませんが英語は話せないし、暴力は嫌いだしカナヅチです。なので身には一つもなってません笑

ADHDは飽き性と言われてますけど、ぼくの場合はとんでもなく不器用で作業スピードが遅いのが特徴。
人が10出来るあいだに1しか出来ないので周り比較して嫌になって辞めちゃいました。

中学高校

中学高校ではチームスポーツが苦手なことを思い知らされます。バスケとバレーをやりましたが球技が極端に苦手で諦めました。
ボールの位置と自分の手の位置の距離感がつかめないんです。
だからしっかりキャッチ出来ないし、空中のボールをスパイクすることも出来ません。

このことがきっかけで自分の世界に余計に没頭します。ぼくは当時友達が少なかったから一人遊びをしてました。
小学生の頃は人形遊び、中学生の頃はカードゲーム、高校は将棋をしていました。
カードゲームも将棋も相手がいなくても遊べるもので相手の動きを予想して遊んでいました。

大学になると放送部に入り同期からは「宇宙人」と言われました。
自分が一番普通でまとも過ぎるところがコンプレックスなだけにこの評価は今でもふに落ちません。

大学から社会人へ

大学の学費は全て自分で払っていたのでバイトばかりしてました。
よくクビになったけど。
最初はファミレス、次にホテルの配膳、ベッドメイキング、蟹屋さん、旅館

社会人になってからは
イベント設営、絵画レンタル、営業、受付、警備員、荷物の積み込み、

どれも長続きしませんでした。

理由はシンプルで仕事が遅くて、よくミスをして、物覚えが悪い。だから人からも嫌われる。
やめたほとんどの理由が仕事が出来ない自己嫌悪と人間関係です。

現在

現在は実家で障害年金2級をもらいながら社会復帰のため職業訓練の面接にいっています。
残念ながら職業訓練の面接は2回落ちていますが…。
年齢も今年で26歳になるのでwebライターかwebデザイナーで生計を立てようと考えて動いています。

このnoteでは自分のADHDとASD、APDに関して発信していきます。

この記事を読んで共感してもらえたり、精神障害について興味をもってもらえると嬉しいです。

ではまた

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