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ニンニク入れますか?

最近、私は二郎ラーメンにハマっております。
三田本店は美味しいけど、最近は目黒二郎がお気に入りどす。

二郎と言えば、定番のあのセリフ「ニンニク入れますか?」がありやすね、今となってはスターターピストルの合図でキタキターって心の中で思っていますが、
最初の頃は、緊張しておりやした。
ふとね、そんな時、思ったんですよね。

「ニンニク入れますか?」って
「運命って信じますか?」となんか言葉の雰囲気似てね?ってね。
二郎で、コールの時に「野菜、ニンニク、アブラ」って言ってる中で、「信じます」って言ってるやつなんかいたら、ジロリアン達に黙殺されそうですよね。

まあそんなことはおいといて、
みんなが思い浮かべる「運命」とはなんでしょうか?
運命的な出会い、あの時、あの場所で出会った人は運命の人でしたというような感覚や、まるで元々体の一部であったようなフィットする感覚の服や物に出会った時等、偶然起こったことを必然であったかのように感じることをイメージする人も多いと思いやすね。

最近読んだ本で、『「運命」と「選択」の科学』では、物事を判断し、選択する過程において、遺伝子が関係していることも、明らかになっているらしいどす。
例えば、ランチに唐揚げ定食を選びがちな人は、そもそも遺伝子に高カロリーな食事を求めることがプログラムされている。というようなことです。
そうであるなら、ランチのメニューを自由に選んでいるというのは自分の思い込みで、実際には遺伝子の命令に従っているだけ、ということになるわけですな。

本書ではこんなことも書いてありやした。
「運命とは『常に到着の可能性が非常に大きい目的地』だと考えるべきかもしれない」
とまあ、二郎を食べたくなった自分も、自分でその選択を選び取っているわけではなく、遺伝子に駆り立てられてるのかもしれないですな。笑

人間は生きている中で、選択の自由意志が低く、遺伝子の影響を多く受けている。
この事実は解明されつつあるが、じゃあなぜ、人間はこんなにも悩み、苦しみ、時には自分で自分の命を終わらせることもあるのか、それは運命だったのか、遺伝子に決められた選択なのか、到着の可能性がある目的地の一つだったのか、そんなことを考えていると一冊の本に出会った。これも運命ですかね。

この本は、能楽師の人が書いた本で、その中の言葉で、
『古い日本語の「からだ」というのは死体という意味でした。生きている身体は「み(身)」と呼ばれ、それは心と魂と一体のものでした。やがて、生きている身体が「からだ」と呼ばれるようになったことで、からだは自分自身から離れて対象化されるようになります。そうすると、自分自身との一体感が薄れるので、専門家である他人の手に委ねても平気なようになるのです。』
そして、本書によると、古代文明で文字が生まれた最初は「心」を表す文字はなかったようです。
文字が生まれた後に、人は心というものを認識し、心と身体が別れてきたのだと書かれています。そして、現代において、心を持った副作用として、自分の意見を主張し、自分と周囲の間に壁を作り、自己が確立することで、他の人々と深刻な対立が生まれていると書いてありやした。

まずは、自分の中で、心と身体を一体化させる。頭で考えるのではなく、心で悩むのではなく、身体で感じる。

ちなみに能というのは、多くの題材が生きてる者と死者の対話だそうです。
目に見えないものが見えている世界、
しかし、本当に見えないかどうかはわからない、目には見えないものをみること、耳には聞こえない木や石やその他色々な物などの声をきくこと、自分の心にとらわれず、身体をもっと手放せば、辿り着く目的地は、変わってくるのかもしれない。

そんなことを考える今日この頃です。

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