地域性や時代性がひもづいた作品群を、建物の「シャッター」あるいはカメラの「シャッター」でとらえることになぞらえて焦点を当てる『Multi shutter/マルチシャッター』展のステートメント

『時代の湿度、我々は何故移動するのか』
昨今、丹下健三の再評価が目立つ。近代以後に、人々が紡いできた「都市開発」は素晴らしい効率的人工都市だった。土地の収益を最大限に拡張して行く事こそ、恒久的な街だと信じて都市は設計されてきた。首都圏に限らず、その為の交通網を日本全国に敷いてきた。地形を掌握する土木事業と人口獲得があってこその開発と資源。収益の最大化を最優先にし、その土地の背負うリスクを考えてこなかった。液状化する埋立て地も、津波による災害から逃れられない海抜の低い土地も、収益の最大化というビジョンの元に提出される設計図には計上されなかった。大きな震災から七年が経った今。それでもまだ「戦後に偉人が成し得た人口都市の成功例」と「無条件に共有される伝統という虚構の街並み保存」を力点に語られる建築土木界。若い建設作業員は、どんどん減っている。建設現場に「職人」といえる作業員が殆どいない事は、若き建築志望者達も気づいている。限界集落をはじめ、各地方では「今ここにある資源を利用していく事でしか生きていけない」という現実、そして放っておくことの出来ない負債を「恒久的で無くとも、最大で無くとも、収益にするアイデア」を求めている。それはもう「資源」では無く「ゴミ」でしか無い、既に「資源」とは言えない。余りにも劣化した都市の計画図に、若い表現者は興味無い。そもそも、丹下の時代とは異なり、設計された「図すら存在しない」こともある。日本のこの湿度が高くジメジメとした蒸し苦しい夏になると、我々は無条件に過去に起こった悲劇を思い起こさせられる。戦後日本に山積みになった社会問題とされる課題が飽和状態となった平成の後半に、大きな震災やグローバリズムの解体があり、もう何処から課題を片付けていいか分からない状況、身動きの取れない状況を続ける事は、「図すら存在しない」時代の延長になってしまう。だとしたら半世紀前に造られた効率的な都市設計によって敷かれた交通網を使い移動する我々はいま、どんな設計図を提示するべきなのだろうか。

2018年8月 秋山佑太

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