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【ご意見大募集】「教える」ことの難しさ

■はじめに
おそらくほとんどの方が、小学校に行き、中学校に行き~という生活を送られていたと思います。
そのような環境の中で育ったということは私達は、常に「教えられる」ということがまとわりついています。
なので、自分自身の教育観というものをそれぞれなんとなくでもありながら持っているのではないでしょうか?
今回は、ちょっと難しいですが、「教える」ということについて考えていきたいなと思います。そんな考えるきっかけを作れたらいいなと思います。

■目次

・「教える」の定義
・「教える」という営みがどのような影響をもたらすのかという私なりの考
 え
・私からの質問
・最後に

■「教える」ということの定義
まずは、「教える」ということに対して私がどのスタンスに立って説明するのかという事を明確にしたいので、定義したいと思います。
あえて古臭く、かなり範囲を絞ったうえでの定義になります。

この記事では、「教える」=「相手のことを考えた上での知識の伝達」という前提のもとで話していきます。
自分でも分かっていることなのですが、この前提は古臭いですよね笑
「相手の事を考えた上で」ということも入っているので「教える」という行為を通じて学習者がどのように「学習」するのかという事も視野に入れながら私の考えを示したいと思います。

■「教える」ということは難しいなと至った私なりの考え
では、この記事のメインテーマである、「教えることの難しさ」ということについて話していきます。
「教える」ということによって学習者はどのような変化が起こると思いますか?
私としては2パターンに分かれるのではないかと考えました。

(ⅰ)思考が深まる
この図1では、元々その人が持っていた考え方に専門性が高まったということを意味しています。いわば「狭く深く」という事と似ていると思います。

図1

(ⅱ)思考が広がる
この図2では、元々その人が持っていた考え方に新しい考え方が生まれ、広い視野で考えられるようになったことを意味します。こちらはいわば「広く浅く」という事と似ていると思います。

図2

「教える」という事に関して、この2つの状態になるためにどちらもバランスよくしていくことがベストではありますが、私としては懸念点もあるのではないか考えてしまいます。
特に、「思考が深まる」時です。結論、「場合によっては考え方が偏る、その考え方でしか考えられなくなってしまう」場合もあるのではないでしょうか?この懸念点があるからこそ「どこまで教えたらいいのか」という加減を考えなければいけないため、「教える」ということは難しいなと思います。
私としては、その加減を誤り、「教えすぎ」になり、その学習者の行動が縛られてしまうことも嫌ですし、考える力がなくなってしまうのではないかとも思ってしまいます。

なので、「自由」(=ここでは教えすぎないという意味)を与え、「余白」を残すようにしなくてはいけないと考えます。ただ、この「自由を与える」ということも状況によってどうしていくのか考えなければならない問題です。なぜかというと「自由」を与え、「学ぶ」ことは個人の能力に委ねられることにもなるからです。そうなると新たな視点や考え方を持てるようになる為には時間がかかってしまうかもしれないという想定も考えられます。特に、何か時間の制約がある場合は、その人にとって良くない結果を招くかもしれません。時間の制約がある場合というのは、例えば、受験勉強や営業の仕事のノルマが挙げられます。

のろのろと結論が出ないまま終わりそうですが、つまり「教える」に至っても個人によってどこまで教えるべきでどこまで「自由」を与えるべきなのかというのは、教える側の能力も試されるという事です。その見極めや判断能力を持って最適な形で提供しなければならないということですからね。なので、「教える」という行為は、かなりの高等技術だと思っています。

■私からの質問
・どういった「教える」を提供していますか?もしよろしければ、教える対象もどういう属性なのかといったところも知りたいです。

■最後に
私は、X(旧Twitter)のアカウントを開設していますので、この記事のURLはそちらの方にも掲載いたします。この記事について「私はこう考える」というご意見がございましたらDMで構いませんので、お話できればと思っております。(Xの名前は「ゆったりせんせい」になっています。なので、間違いではないです。)

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