【ゆのたび。】 12:鹿児島温泉旅⑥ 開聞温泉 ~ガイドには乗らない、山と同じ名の名湯~
鹿児島市の南の指宿市にある、形のきれいな開聞岳。この山はその均整の取れた形から薩摩富士とも呼ばれる。
開聞岳の麓で、私と友人は車内で天気が好転するのを待っていた。
雨続きの予報の中で、今日は少しだけ天気が良くなりそうな予報だった。
鹿児島に来た目的は登山である。せっかく足を運んだのだから、可能なら目的の半分でも達成したい。
その想いで、天気が良くなる可能性を信じた私たちは車を走らせて、開聞岳の麓にやって来たのである。
だが、次第に予報へ疑いを持ち始める。これはやっぱり無理なのでは?
確かにここへ来る途中は雨が降っていなかった。
が、麓に着いてみると小雨が降っていて、山頂も雲の中に隠れていたのだ。
「もしかしたら天気が良くなるかも。ちょっとここで15分くらい待ってみようか」
「それもそうだ。そうしよう」
友人の言葉にわずかな期待をする。にわか雨なのだろう、きっとすぐに止んでくれるさ。
そう思ってから15分後。天候は……より悪くなっていた。
雷がゴロゴロの鳴り始め、小雨だった雨は強さを増して車体にザァザァと打ち付ける。
「……もうちょっとだけ待とう」
「そうだね、そうしよう」
さらに15分の延長。いや、きっと天気は良くなってくれるから。目の前に起こる現実に見ないふりをして、15分先の未来に希望を託す。
しかし、天気は無情だ。私たちの都合のために天気を変えてはくれない。
雷雨は止む気配もない。目の前にそびえる開聞岳は、すっかり嵐の中にその姿を隠していた。
「帰るか」
「帰ろう」
静かな決定だった。
本音は30分前から決まっていたのだ。ただ、諦めきれずにその場にいただけなのだ。
泣く泣く開聞岳を後にする。もはや登山の計画はこれまでだ。
ならばもう仕方なし。
温泉に入って街へと帰還することにしよう。
温泉が好きだ。
そういう意味では、この国は随分と恵まれている。
源泉数や湧出量もさることながら、温泉を愛する文化が社会に根付いているというのは実に素晴らしいことに思う。
この国は火山の国だ。世界にある活火山の1割がこの国にある。
火山は様々な災害をもたらす。しかし同時に、同じかそれ以上の恵みを私たちに与えてくれる。
温泉の多くは火山のたまものだ。そのため、火山の近くでは豊富に温泉が湧く。
桜島を始め名のある活火山を有する鹿児島は、それゆえ数多くの湯が湧いているのだ。
温泉が好きだ。
だからこそ、私は鹿児島を訪れた。
今日も湯を求めて、である。
細道の奥にて、渋い温泉に出会う
山登りに温泉はセットだ。個人的な意見である。
やはり、疲れた体を温泉にて癒すのは至福だ。靴擦れで剥けた足の部分に湯が沁みて痛いのも、それはそれで趣だと思う。
たいてい、山の近くには温泉がある。地学的に理由があるのだろうが、私は詳しく語ることはできない。
ただ一つ言えるのは、山と温泉をセットに仕組んだ何某かは、まったく粋なことをしてくれたものである。
開聞岳の近くにも温泉がある。というより、指宿には豊富な温泉がある。
指宿は砂蒸し風呂が全国的に有名だが、実は鹿児島県内にある源泉の約半数がある豊富に温泉が湧く地域だ。
そのためか、地元民が日常で使う共同浴場の数が多い地域である。
少し調べてみれば、開聞岳の近くにも共同浴場があるのを見つけた。
しかも、山の名前と同じ名を冠した温泉である。
これはもはや、開聞岳に登った人間は入っていけと言っているようなものだ(私は登っていないけど)。
海沿いに細い道を走る。
雨足は強く、道路が冠水していてそこを走ればタイヤが大きく水を弾く。
と、ふと細い脇道を通り過ぎる。私はそれを気にしなかったが、しばらく走っても温泉が見当たらないのでこれは変だと車を停めて地図を再確認する。
どうやらさきほど通りすぎた道がそうだったらしい。来た道を戻る。
今度は道に入って、ゆっくりと奥に進むとさらに道が分かれて奥へと続いている。
ふと脇を見れば、看板がある。どうやらこの奥で合っているようだ。
車1台分の細い道を進み、その先に未舗装の駐車場、そしてさらに奥に建物を見つけた。
遠くでもその雄大な姿が目立つ開聞岳とは反対に、開聞温泉はずいぶんとひっそりとそこに佇んでいた。
開聞温泉
なんだか、ともすれば森にのまれて行きそうな姿だ。
パッと見てここが温泉の施設だとすぐには分かりにくいだろう。
ここに何も知らずに迷い込んでしまったら、誰かの家に入り込んでしまったのかと焦ってしまうかもしれない。
しかし近づけばちゃんと、
『ゆ』の字と『開聞温泉』の字が書かれている。
この飾りっ気のなさ、いかにも地域の共同浴場といった様相でとても期待感がある。
ガイドにはまず乗らないだろう、街の外れにひっそりと建つ温泉だ。
同伴している友人は私と同じような感覚を持っていないので、温泉ならどこでもいいやというかのような顔を隣でしている。
ここに来たのは実は半ば私の独断なのだ。すまない、ここに付き合わせてしまって。
事務所のようなドアを開けて中に入るとそこはいきなりの更衣室だ。
壁に直接貼られた掲示物、表面の傷ついた扉、古びた椅子。
まさに生活の湯といった雰囲気。観光客への媚びを少しも感じない。
だがそれがいいのである。
受付があり、そこで料金を直接支払う仕組みのようだ。
料金はおとな300円。日常的に通ってもお財布に優しい良心的な価格だ。
「すいません、温泉使いたいんですけど」
受付の奥へと私は声をかける。
しかし、返事がない。もう一度声をかけても返事は帰ってこなかった。
営業しているので誰かはいるとは思うのだが……首をかしげるも、まあお金さえ払っておけば文句は言われないだろう。
建物の外で、嵐の音が聞こえる。なんだか心細くなる気がしたので、早く湯に入ってしまおう。
衣服を脱いで、ドアをスライドして浴室へと入る。
瞬間、ムワリとした湿気が全身を包んできた。
タイルの壁が四方を囲う、部屋の真ん中に浴槽があるよくあるタイプのレイアウトだ。
蛇口はあるがシャワーはなく、備え付けの石鹸もない。
そして一目見て思うのは、圧倒的な湯の濁り具合だ。
雨の後の川のような、赤茶色の濁った湯だ。浴槽の深さが全くこちらに想像させてくれない。
そしてその温泉の成分のおかげか、床一面は湯と同じ色の赤茶色に染まってしまっている。
清掃する方が一生懸命掃除をしてくれているはずなのに、それをあざ笑うかのように赤茶けた成分は床にみっしりとこびりついている。
それだけ濃厚な湯ということだろう。俄然楽しみになってきた。
体を流して、湯へと入ってみることにする。
……はずだったのだが。
湯が、熱い! 皮膚が悲鳴を上げるビリビリとした感覚。
こいつはなかなかな熱々風呂だ。心しないとやられてしまう。
浴槽は肩まで浸かれる十分な深さだ。全身を沈め、ふぅっと一息つく。
体を芯から温めてくれそうな濃厚な温泉だ。見るからに体に効きそうである。
浴槽のそばには水道につながったホースが置いてあり、もし熱かったときにはこのホースから湯に水を注いで冷ませばよいようだ。
このタイプの温泉はほかの地でもあったが、なかなかお湯は冷めてはくれないのだ。結構な量を入れてもまだ熱かったりする。
次第に、こんなに入れたらお湯が薄まってしまうんじゃないかと心配になってくるのだが、そもそも入れなければ熱すぎて入れないのだから水をジャブジャブ入れるほかない。
もしかしたら今日は、事前に誰かが入っていた後なのかもしれないな。そのときに水で冷ましていたから、私たちはそれなりにちょうどよい湯加減で葉入れているのかもしれない。
湯をひと舐めしてみると、しょっぱさと鉄っぽい味がする。
沿岸部らしい、塩化物温泉といったところだ。
この類の温泉は非常に体が温まり、その温まりが持続する。のぼせないように注意だ。
この湯は、山から帰ってきたときに入ったら非常に気持ちがいいことだろう。
濃厚な湯に、体の疲れが一気に解消されそうだ。
山に登れなかったことが悔やまれる。そのときならより、この湯の良さを体感できたはずだ。
と、雷が近くで炸裂した音が突如鳴り響く。腹の底を震わせるその響きは体をシュンと縮こまらせてくる。
これは、そもそも登山は無理だったな。
分かっていたことだが改めてそう思う。無理して登っていたらどうなっていたことやら。
開け放たれた窓の外で、雨がザアザアと降っている。裸でその様子を眺めていると、不思議な安堵感に包まれる。
次の機会で開聞岳には必ず登りたい。そしてそのときには、今度こそこの開聞温泉にて登山の疲れを癒したいものだ。
それまではお行儀良く過ごしておこう。お天道様は見ている、と聞く。
日頃が良いのなら、天気もそのご褒美で良くなってくれるかもしれない。
あれ? それってつまり。
私が日頃、悪いことをしていたのがバレていた?
……ちょっと、お酒を控えるくらいはしてみることにするか。
それくらいでお目こぼしいただきたい。
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