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ディア・ソムニア【第三話】

 手術を経て、その後の航平の生活は鮮やかに生まれ変わった。日々夢の中で、希美花との甘いひとときを過ごす。
 公園。遊園地。映画館。砂浜。夜のスカイツリー。夢中では自宅に限らず、二人で過ごす場所は様々だった。日によって、希美花の希望する場所の時もあれば航平の時もあり、ランダムではあるがそれがまた、楽しくて。まるで「どこでもドア」を手に入れたかのよう。夢の世界は大変便利で、玄関の扉を抜ければすぐに目的地へと到達できた。
 その中で、基本的には自宅で過ごすのが好きな航平。けれどそんな航平に「行きましょ」と言って、希美花はよく外へと連れ出した。この世界に生きる彼女は活き活きと楽しそうで、幸せそうで。時に、あどけなくて。
 二人の世界は理想郷そのもの。たとえ野外であろうと、誰にも干渉されず遮断もされず、常に平和な空間だった。経済面を一切気にすること無く、望んだモノ、望んだ場所にお金を使わずに直ぐに行ける。
 日常と非日常が味わえる素晴らしい世界。ユートピア。そしてその隣にはいつも、愛する妻がいた。
「航ちゃん。そろそろ帰りましょ」
「え? もう? でもまだ」
「ううん、ダメよ。明日も航ちゃん仕事なんだし。ちゃんと睡眠はとらないと」
「まあ、そうなんだけどさ」
「私はずっと、航ちゃんの中にいるから。だから、ね?」
「……そうだな。急がなくても、明日また会えるんだし」
「ええ。だから今日はもう、おやすみしましょ」
 希美花は優しかった。現実を生きる航平の身を案じ、無理をさせないよう気を配り、体調管理までしてくれる。まるで自分がスポーツ選手にでもなったかのよう。だから夢中ではよく、航平は希美花に甘えていた。

 いつまでも、ここに居たい。
 けれど。
 それでも朝はやって来る。

 翌朝。すし詰め状態の通勤電車に揺られながら、ゆっくりと手を握り、開いては見つめる。
 ――ひん。
 殺伐と虚無を纏った歪な波に揉まれながら、航平は夢中で過ごしたひとときを想起し、希美花の温度を確かめていた。


「そういえば航平さ」
「なんか最近、以前より随分と顔色良くなったな」
「言われてみりゃ確かに。もしかして航平、この間の休暇って……まさか俺たちに内緒で、新しいオンナでもできたか?」
「いいや、別にそんなんじゃないって」
「だよな、ハハッ。航平には、奥さんいるんだし」
 職場での休憩時間。普段から親しくしている同僚にそう返すと、航平は「夜更かしをやめただけ」と軽くあしらう。 
 彼らは何も知らない。それに社員全員が妻との面識はなく、知られているのは航平がただ既婚者であるということ。妻の病状についても何一つ、誰にも知らせてはいなかった。
 夢現手術については一般的にも周知はされているが、話題になれば必ずと言っていいほど賛否の意見が分かれる。身近に施術した人間がいると知れば、社内中にたちまち流布され面倒な事にもなるだろう。だからが故に航平は、こと夢現に関しては全て、その一切を伏せて過ごしていた。
 現在、自動車部品メーカーに勤務する航平は法人営業部に所属し、今年でちょうど五年目になる。同僚にああは言ったものの、やはり愛の力は凄まじい。航平は身に沁みて、それを実感していた。
 これまで目下の業務を雑多にこなす日々だったが、術後からは改めて見直し、業務の優先事項とタイムスケジュールを大幅に改善。タスクの中でも特に、重要な利益に直結する納期調整や見積作成などを早朝から最優先にこなし、午後三時までには終わらせる。そして上司や他部署に気を遣って都度対応していた社内業務に関しては、緊急でない限り何であれ、後に回すようにした。
 新たなルーティン。何より、これまでに類を見ない集中力を発揮し続けた結果、航平はスムーズに仕事を裁けるようにもなり、最近では定時あがりを実現できている。
 それもこれも、全ては希美花がいるから。
 万全の状態で睡眠を摂り、彼女とできるだけ長く過ごすため。
 希美花との共存が始まって以降。
 航平の生活は公私ともに、順風満帆そのものだった。
 
「航ちゃん」
「お誕生日、おめでとう」
「ありがと希美花」
 いつもの場所。理想郷の自宅にて。テーブルの上に並べられた豪勢な手料理の数々。
 この日はちょうど航平の、三十歳の誕生日だった。温かみのある間接照明に包まれたリビングで、ウォルナットのローテーブルを前に二人して隣り合う。
「ねえ、航ちゃん見て。このケーキね、中にいっぱいフルーツが詰まってるの」
 嬉しそうに言いながら早速、ケーキを切り分けようとする希美花。
「あっごめん、ケーキは最後だよね。つい、舞い上がっちゃった」
 照れ笑いを交え、ほんのり赤らんだ頬。美しい妻のその横顔を眺めながら、航平はたまらなくなり、力いっぱい彼女の身を手繰り寄せた。
「あっ」
「も、もぉ……航ちゃんたら」
 言葉を吐きつつも抵抗など見せず、航平の胸元へと沈み込む希美花。引っ張られた衝撃でケーキナイフがテーブルの上に転がり、真っ白な生クリームの欠片が偶然にも、きめ細かな彼女の頬にピタリと張り付いた。
「ごめん希美花。クリーム、付いちゃったね」
 包まれた両腕の中で、希美花は「ううん……」と上目遣いを見せる。航平は人差し指を立て、愛妻の頬をそっと、優しく撫でた。
「はい」
「……フフッ。あ、んぅ」
 這わせた指先を、彼女の眼前にかざす。すると希美花は仔犬のような表情で、嬉しそうに口へと含んだ。柔らかな彼女の舌が全ての欲望を受け入れるように絡みつき、そのまま第二関節まで包み込む。久方ぶりの感覚を覚えた航平はそのまま希美花を抱き寄せ、覆いかぶさった。
「……航ちゃん」
「いい?」
「うん」
「本当に?」
 その気がありながらも、イタズラに彼女をじらす。
「けど、せっかくの希美花の料理が冷めちゃうよ」
「大丈夫。ここは夢の中だから。私たちが望む理想の状態に、また巻き戻せばいいだけ」
 希美花は見上げながら、甘い吐息を零す。
 桜色に染まる肌。触れ合う肌と肌から、航平はゆっくりと幸福を噛み締めた。
 そう。この世界に縛りなど無い。望む場所。望む時間。ここにはいつでも、二人だけの世界が広がっている。航平は希美花の指に自身の指を絡ませ、腕を拘束する。そしてガラスフィルムを気泡無く貼り付けるように、唇を重ねた。
 次第に加速度を上げる鼓動。荒ぶる呼吸。肌伝いに心音を受信した希美花が小さく頷くようにして音色を吐き、航平の首元へ両腕を回す。
「キミカ……」
 何度も何度も、名前を呼ぶ。妻も同様だった。
 言葉で。肌で。心で――。
 その夜二人は、永遠の愛を確かめ合った。

「今日はありがと。次は、希美花の誕生日だな」
「フフッ、だね。じゃあ航ちゃん、今度は航ちゃんがお祝いしてくれる?」
「もちろんだよ。でもさ希美花。夢の中なら、どんなプレゼントでも送れたりするのかな」
「どうだろう、フフッ。きっとできるとは思うけど」
 シャツのこすれる音。胸元に佇む希美花がゆっくり這うようにして上体を起こすと、キラキラと虹彩を輝かせた。
「ありがと航ちゃん。でも大丈夫よ。航ちゃんさえ、傍に居てくれれば」
「航ちゃんの幸せが――私の幸せだから」
 鼻先を触れ合わせ、互いに微笑み合う。
 その後体勢も立場も逆転し、希美花に頭を撫でられながら、航平はそのまま深い眠りへとついた。


 心地良い春の季節はうに過ぎ去り、コンクリートジャングルよろしく、蒸し暑い夏が到来の兆しを見せる。
 時は流れ、夢現手術から気づけばあっという間に、二ヶ月が経過していた。
 これまで順調に仕事をこなしていた航平、だったが……。思いがけずその生活リズムに、決して良いとは言えない形での変化が生じ始めていた。
 というのもそれは航平のみならず、ここ最近受注が急激に増えたために、営業部の社員全員が異例の繁忙期を迎えていた。
 ある意味、嬉しい悲鳴。けれど次第に定時あがりも困難になり、残業も増えていくことに。夏のボーナスに一喜一憂する暇も無く、航平としては優先すべき「希美花との時間」が削られてしまう、それだけが気がかりとなっていた。
「課長。このままだと、流石にヤバくないですか?」
「自分も思います。ここんとこ徹夜続きで」
「ああ、そうだな……。悪いなみんな。せめて部内の庶務だけでも、一挙にこなしてくれる事務員が補充できれば助かるんだが……。近々人事のタイミングだから、どうにか上に掛け合ってみるよ。だから悪いが、もう少し辛抱してくれ」
 本音を零す同僚の部下たちに、課長はそう言ってねぎらう。
 航平のいる会社は決して大企業ではなく、現状のタスクの量を考えると人員も乏しい。そのため細々とした内勤業務でさえ、各自でさばきつつ日々の業務をこなしていた。当の航平も同僚と同じ思いを抱きながら、デスクへと向かう。
 正直周りが言う程、心身の負担はそれほど感じない。でもそれは忙しくなって以降「今日はここまで」「ちゃんと、ゆっくり休んで」と、希美花に会う度に配慮と慈愛を受けていたため、だった。
「はあ。ここ数ヶ月は、辛抱するしかないか」
 自分と妻は言わば、一心同体。だからこそ「カラダは資本」であることを改めて実感する。
 課長の言う人員補充に一縷の望みを抱きつつ深々と嘆息すると、航平は首を鳴らし、ブラックの缶コーヒーをぐいっと流し込んだ。


  ◆◆◆


「みんな。今日からウチの部署に、新しく配属になった――事務員の一ノ瀬さんだ」
「それじゃあ一ノ瀬さん、自己紹介を」
「はいっ」
 繁忙期に入り、一ヶ月が過ぎた頃だった。
「はじめまして。本日からこちらの部で事務をさせていただきます、一ノ瀬瑠璃いちのせるりと言います。よろしく願いします」
「っ」
「いちの、せ……るり……、え?」
 深々と丁寧に低頭する、部に配属となった新入社員の女性。肩まで伸びたチョコレート色のミディアムボブを指で整えながら、社員からの拍手に少し照れた様子。男性の比率が高い職場内に、小柄で華奢な彼女のシルエットが、ひときわ目立って映った。
「「あっ」」
 一人一人と会釈を交わす中で。
 やがて視線が交差し、二人の小さな感嘆が重なる。
(っ……瑠璃?)
(こう……くん?)
 言葉には出さない。出さないまでも、直線に落合った眼差しが互いの心情を明瞭に物語る。
 航平は彼女を知っていた。対する彼女も、同様だった。
 それは高校以来、十三年ぶりの再会だった。


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