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ほんとうのことば | ある日の日記より

「僕、梅雨が好きなんですよね」

そう声にして言ったのは初めてだったかもしれない。
言い慣れないことばのざらつきを舌で感じる。どうしてこんなことばがぽろっと出てきたのだろうか。

◇◇◇

6月29日(土)
傘が手放せない日が続く中、063マロミCoffeeで第3回のライティング・ゼミが開催された。店内に入ると、この日の参加者はすでに揃っており、僕が最後の一人だった。

第3回のテーマは「聴く」こと。

今回が初の対面参加の方も迎え、まずは一人ずつチェックインをした。

⚫︎お名前(もう覚えた?)
⚫︎近況(ハッピーだったこと、あなた的NEWSな出来事)
⚫︎この夏の過ごし方
⚫︎今の気持ち、本日の体調(いい感じ? ちょっとしんどい?)

この日のチェックイン項目

3番目に僕の順番が回ってきて近況を話す際、「僕、梅雨が好きなんですよね」ということばがおのずからこぼれ落ちた。普段、梅雨が好きだということを人に言うことはなかった。それはただ、言うような機会がなかっただけかもしれないし、なんとなく低気圧や湿気のせいで梅雨を嫌う人が多いイメージがあり、梅雨好きを公言することをはばっていたせいかもしれない。だから、気がついたらそう口にしていた自分に驚いた。

「どうして梅雨が好きなの?」質問が返ってくる。
「そうですね、、、なんというか梅雨に一人の部屋で雨音を聞いているのが好きなんです。静かで、、、好きです。」
その場では、うまくことばにできなかった。

その後のゼミでは「8分ミニカン(=ミニカウンセリング)」をしてみたり、「筆談」をしてみたりと、今回も和やかな雰囲気の中、刺激をたくさんもらいながら進行し、あっという間に終わりの時間になってしまった。

◇◇◇

7月1日(月)
雨と風の音で目が覚めた。どうやらかなり激しく降っているみたいだ。
これは午前中の実習は無くなるかもな〜なんて思いながら二度寝して起きたら、雨は止んでいた。
実習に行ってしばらくするとまた雨が降り始めた。今度は雷も鳴っている。昼ご飯を持ってくるのを忘れたので、LAWSONでマーガリン入りバターロールを買った。控え室でそれを食べながら、日曜日のゼミのことを振り返る。

「僕、梅雨が好きなんですよね」

どうしてそんな発言をしたのだろうか。いや、できたのだろうか。
普段とは違う何かがそこにあったのか、だとするとその”何か”とは一体何なのか?

実習が終わり、雨の中を家まで歩く。傘が弾く雨の音に気持ちが落ち着く。まるで世界からこの傘の下だけが切り取られたかのような、そんな感覚。
家についてエアコンをつける。雨が降っているので、少しだけ窓を開けて留守の間に澱んでいた空気を入れ替える。
それから、デスクライトをつけ、本棚に並ぶ本たちの上角をすーっとなぞる。読みかけの本はたくさんあるけれど、自分の気分を伺いながら「現代思想」を手に取ってみた。

『現代思想 2024年5月号 特集=民俗学の現在』。
ずっと気になっていた現代思想をつい最近になって2冊購入してみた。そのうちの一冊がこれだ。
しおりを頼りに前回の続きから読み始める。3つほど新しい章を読む中で、ある章にこんなことが書かれていた。

 以上の事例から分かるのは、きわめて明白なことではあるが、心意は人間の内面にあり、外部からのアクセスは不可能だということである。それにもかかわらず、手塚恵子が言うように、「私たちは他者の心の中の像を理解したように思う瞬間を持ち、それに共感したり反発したりすることがある」(手塚 1998:190)。先述の関が指摘するように、心意は他者との共有される外面的なものでもあるわけだ。この特徴づけを両儀的だとか矛盾しているだとかいうのはおかしなことである。心意の概念を自明視する民俗学者にとって、心とはそのようなもの、、、、、、、なのである。

民俗学に心は必要か?――心意から相互行為、そして霊魂へ / 廣田龍平

そのようなもの、、、、、、、……か。

一度本を閉じて、お茶を淹れる。本を読んでいると新しい言葉や概念が自分の中に流れ込んできて、ぱちぱちと音を立てながら脳の中にある既存のそれらと、時にダイナミックに、時にゆるやかにつながりを形成していくのを感じる。

◇◇◇

7月3日(水)

淹れたての紅茶は熱くて、味わう余裕もなく飲み込んでしまう。ちょっと待てばよかったのに。

実習終わりの夕方、初めて行ったカフェで紅茶とケーキを注文して、窓から外が見える席に腰を下ろした。リュックから本を出して読み始める。
今日は『現代思想+ 15歳からのブックガイド 』。すっかり現代思想にハマってしまい、追加でさらに購入した。1時間ほど読んでいると、いつの間にか空が暗くなり始めているのに気がついた。雲の動きに反比例するかのように、空はゆっくりと暗くなる。秋の日はつるべ落としというけれど、梅雨のこんな日はなんというのだろうか。

少し目が疲れたので、本を閉じてぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。今日は雨が降っていない。雲はかかっているけれど、雲の切れ目から綺麗な晴れ空も見える。

1日の日記で引用した現代思想の、あの章には、こんなことも書かれていた。

私たちは他者の心はわからないと言いつつ、心は「決して当人にしかアクセスできないようなものではなく、相互行為の中でしかるべき仕方で表現されることで、相互行為の参加者にとって非常にクリアにアクセスが可能なものになっている」(黒嶋 2023:216)(9)。これらの議論において重要なのは、心的なものは、個々人の内面にあらかじめ存在するのではなく、他者とのやりとりのなかで構築されるものだということである(クルター 1998)。

民俗学に心は必要か?――心意から相互行為、そして霊魂へ / 廣田龍平

日常生活において、心を文字や言葉や行為行動によって外界に表出することには、ときに危険が伴う。そのため、普段は”恥”とか”見栄”とか”恐怖”とか、そういった感情で心をがちがちに武装している。けれど、土曜日のライティング・ゼミのとき、僕はその武装を解いていた。そんなふうに感じる。
だからこそ、普段であれば思ってはいても口にはしなかった「僕、梅雨が好きなんですよね」なんていうことばが自ずから出てきたのではないだろうか。

ただし、それはまだ”ほんとうのことば”ではない気がする。武装を解き、心を表出することは、”ほんとうのことば”が現前することの必要条件であって、十分条件たりえない。

もちろん心を外界に差し出す行為にはそれなりの勇気が必要で、それだけでも大きな意味を持つように思う。だけれど、心を差し出すことによって得られた”ほんとうのことば”の末流は、そのような心を差し出すという相互行為を、蛇行や合流を経験しながら繰り返すことでしか、その源流まで至らないのではないだろうか。

心は干渉し合い、螺旋状に変化していく。


日はゆっくりゆっくりと暮れる。目線を落とし、本を再び開く。先ほどよりも手元が暗く、文字が読みにくくなってしまった。




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