見出し画像

白球追う笑顔と、特攻隊のそれと。

 私は高校野球が大好きだ。この時期になるとテレビにかじりついて見てしまう。前職のNHKの記者時代は、職場にTVが常についていて、全チャンネルを見られるようになっていたから、同じく高校野球ファンの先輩方や同僚と、仕事をしながら観戦をしていたものだった。地元のチームが出れば、地元の人たちの関心は高かったから、観戦することも仕事のうちだったのだ。

 ことしも8月15日がやってきた。慰霊の日。平和を祈る日。ことしはロシアによるウクライナ侵攻もあり、邪悪で強大な力の前には、平和というものはいとも簡単に打ち砕かれることを全世界の人たちが改めて認識した。
 平和を叫ぶだけでは真の平和は訪れない。行動することが大事なのだと、私も改めてしっかりと理解をした。祈りをささげる人間の胸に、また、無防備に命乞いをする人間の頭に、銃で風穴を開けることなど容易いのだ。

15日のニュースは、祈りのニュースで溢れた。そこで目にした、千葉県銚子市の飛行場からフィリピンに出撃し、戦死した青年らの写真に、私は涙を禁じ得なかった。飛行服に身を包んだ20代そこそこの青年たち。笑っている。満面の笑みだ。前列に座る青年たちの前には軍刀。死地に赴く彼らの表情。決して強制されているわけではなく、心の底から笑っている。同じだ。甲子園で死闘を終え、勝利をもぎ取ったどこかの学校のナインの笑顔と、同じだ。

 今を生きる私には、理解が追い付かない。なぜ笑える?母親、父親、兄弟、友人らと、近い将来今生の別れをするというのに。それは私たちが、あの戦争は悪で、特攻隊は悲劇である、というストーリーに晒され続けたからなのだろう。歴史は、いつだって、すでに終わったことだ。後の世を生きる我々は、全てを知っている。全ての出来事が、どういう帰結を迎えるのかを知ったうえでしか歴史を見ることはできない。
 でも、当代の人たちは違う。未来がどうなるかなど知らずに生きている。もしかしたら目の前のことに精一杯で、考える余裕すらなかったかもしれない。

 戦争の指導者たちは、戦争犯罪人となり、法廷で裁かれ、現地の収容所や巣鴨に散った。でも、彼らとて、帝国を滅ぼそうとして積極的に国を誤った方向へ導いたわけでは決してなかったはずだ。ともすれば、あんな無謀な戦争を戦った兵士たちは、狂人の集団なのかと思う現代人もいるかもしれない。でも、私はそうは思わない。みな、誰かの父であり、兄であり、祖父であり、弟であり、息子であり、夫であり、生活と感情があった。何かを守りたいという思いがあった。特攻隊員の日記を読むと、妹や、恋人や、母親や、家族、そして国への愛で溢れている。みんな人間臭いからこそ、そして一日一日を一生懸命生きていたからこそ、戦友との一瞬を楽しみ、あの笑顔が出ているのだろう。

 戦争を称揚するつもりなど微塵もない。ただ、現代の価値観で全てを断じることに抵抗し、一方で今の平和の幸せを改めて伝えたい、守りたいと考え、一気に筆を進めた。

 中国で戦った父方の祖父よ。福島に学童疎開していた母方の祖父よ。そして戦火に斃れた310万の同胞(はらから)たちよ、敵国の民よ、軍人たちよ。日本はきょうも平和です。争いの続くこのクソな世界に一秒でも早い平和を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?