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スマホをしまっちまおうぜ

 筆者は昭和63年生まれ(早生まれなので実際は昭和62年生の人たちと同級生だ)。高校生だったのは2003~06年の3年間なので、もう20年近く前の話になる。

 きょうは、地下鉄で見かけた女子高生2人組の話をしよう。仕事で、我が母校・慶應義塾のキャンパスがある日吉駅から横浜市営地下鉄に乗り、席に着いた私は、目の前に女子高校生2人組が立っているのに気付く。2人は同じ柄の制服を着ているので、おそらく同じ学校の友達同士であると思われるのだが、手にはスマホ。1人はイヤホンをしている。
 電車に揺られること、4~5駅か。2人は手元の機械に目を落としたまま、ただ隣に立っているだけで時間が過ぎてゆく。そして、降りる駅に着いたようで、「ばいばい」と手を振り合い、1人が電車を降りて行った。私が乗ってから、時間にして7~8分はあっただろうか。2人は終ぞ、別れの挨拶以外に言葉を交わすことはなかった。

 おそらく日本中、いや世界中で、日常的に見ることができる光景ではないだろうか。電車に乗り込めば、高校生だけではない。大人までもが、虚ろな目で、あるいはしかめっ面、それか期待踊る目で、小さな四角い機械を見つめている。みんな、この端末に精気を吸い取られているかのようだ。

 自分の高校生、大学生時代を思う。もちろん、最後の昭和ギリギリ世代のその学生時代に、スマホはなかった。ガラケーだ。ガラパゴスだ。赤外線で友達と連絡先を交換していた人たちだ。いまのデジタルネイティブ世代からしたら、猿人か、原人のように思えることだろう(これでも当時は最先端だったんだぞ!)。
 そして、好きな女の子の話、好きな音楽の話、昨日観たテレビの話(Huluとかネットフリックスとかも無かったんだもん)、部活の話、厭な先生・教授の悪口、単位が取れない悩み、バイト先の年上の先輩が恰好良い・イイ女だ、麻生太郎首相(当時)がどうしようもない、・・・だのに華を咲かせていたものだ。

 もちろん、地下鉄の彼女らが何をしていたかまでは知る由もない。学習補助アプリなどに各々取り組んでいたのかもしれない。でも、である。隣に友人がいるなら、その人とのコミュニケーション・会話を大切にしたほうが、人生がより豊かで、素敵なものになると、私は強く思うのである。

 とりとめもない、どうしようもないバカな話で級友と盛り上がったあの時間が、過ぎ去った日々を振り返る時、美しい思い出として立ち現れる。笑い合おう。思いっきり、涙が出るくらい笑い合おう。時には言い合いをしよう。喧嘩もしよう。そうした、生身の人間とのつながり、ぶつかり合いが、きっとみんなの人格を磨く。スマホは便利だ。使わないのは無理だし、使うなとは云えない。でも。1人の時にやればいいんでないかい。

 これを書きながら、高校、大学時代を一緒に過ごした友人たちの笑顔が、笑い声が、鮮明に思い出されるのである。

 スマホがなかったあの時代は、不幸か?はたまた、幸せか?

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