waste of life

喉の奥がぎゅっと掴まれたように痛む。

悲しみのせいだろうか、悔しさのせいだろうか、それとも憎しみのせいだろうか。

「死にたくない」はずなのに、「死にたい」と思うのはなぜだろう。

残された時間のこと。意識しないようにはしている。それでも、ある時どっと溢れ出してくる。怖いのは、死ぬことそのものでは無い。死ぬまでの道すじだ。

たとえ何をしても、結果は変わらない。死を怖がることに意味なんてない。そんなことは分かっている。どれだけ自分の運命を嘆いたって、意味はない。周囲の人間は、私を助けられない。救うことができない。できるのは、ありきたりな慰めの言葉をかけたり、腫れ物扱いすることくらいだろうか。彼らは、命の尊さというものを理解していないからだ。中には、特別扱いしないと心掛ける人もいる。腫れ物扱いせず、今までと同じように接しようとする人がいる。だが、相手に迫った死を認知しながら、接し方を変えないというスタンスも、こちら側すると「暴力」としてうつることがある。

じゃあ、どうすればいいのか。どうすれば、死が迫った人の心を救えるのか。結論から言うと、何をしても救えない。優しい言葉をかけてくれる人もいる。その言葉に救われる者もいるのかもしれない。ただ、少なくとも私は、そんな言葉を「あぁ、また救われたふりをしなきゃいけない…」と半ばがっかりしながら聞いている。

自分1人で背負い込まず、周りを頼っていいんだよ。そんな言葉をよく聞く。ただ、他者の手を借りてもどうしようもない問題は、一体どうしたらいい。

話すだけで楽になるよ。そんな言葉もよく聞く。私自身だってよく使っていた。ただ、抱える問題によっては、人に話す分だけ苦しくなることがある。

病気のことを周囲に公言したことを、私は今でも深く悔やんでいる。1人で背負い混んでいた時の方が、ずっと楽だった。話さなければ、自分の無価値さと、他人の無力さを知らずに済んだのだから。

「もうすぐ死ぬ」という状態は、私に与えられた最後のチャンスのように思えた。健康的な人間と、もうすぐ死ぬ人間がいたとしたら、どちらから要求を受け入れるか。おそらく多くの人が、後者を選ぶだろう。同情ゆえの施しだ。ところが、「もうすぐ死ぬ私」の発言力は、「健康だった頃の私」とそう変わらなかった。むしろ、弱まったとも言えるかもしれない。結局、私の客観的な価値とは、きっとその程度なのだろう。

生きていても、死んでしまっても、世界は何も変わらない。三浦春馬、神田沙也加、りゅうちぇる。世間はすぐに忘れていく。それが現実なのだろう。


かつて私の担当生徒にHという高卒生がいた。彼は、色々と苦労して生きてきた人間らしかった。満足のいく教育を受けてこれなかったと不満を漏らしていた。

ただ、話を聞けば聞くほど、彼は「恵まれている」人間だった。帰る家があり、そこには家族がいて、きょうだいがいて、ご飯も用意されている。塾の学費まで負担してくれている。どこまでも「愛されている側の人間」だった。

彼は結局「頑張らない」ための言い訳を探しているだけだった。あれもこれも周囲の環境のせいにし、「被害者」を演じているだけだった。確かに彼には、いくつかのハンディキャップがあった。理解力や対人関係能力の面で障がいを抱えていた。だから、私も強くは言わなかった。それを受け入れるた上で、寄り添うべきだと考えていた。

私は彼に、自分の病気のことを話した。彼が私のことを尊敬してくれているのなら、打ち明けることで、少しは気持ちを改めてくれるのではないかと思ったからだ。彼は「堀先生にいい報告ができるように、頑張ります」と強く意気込んだ。私は安堵した。

ところが、作戦は裏目に出始めた。彼は、勉強を放棄し、私の病気の治療法について調べるようになった。私のことを心配しているつもりだったのだろうか。いや、それは違う。彼は、目下の課題から目を背けるための「格好の餌」を見つけたのだ。「誰かを心配する自分」は美しく思える。まるで自分がヒーローにでもなったかのような気持ちにもなれる。ところが彼は、「人の心配する自分」に酔っていただけだった。誰かの心配をしている限り「勉強しない自分」を肯定できる。自分の怠惰さが招く「勉強できない」という事象の原因を「人の心配をする自分」に帰する。言い換えれば、勉強をしないことに対する責任を、自分ではなく、私になすりつけるようになった。彼はその後も変わることはなかった。志望校に受かることはなかった。

それでも私は諦めなかった。通信制大学から通学生への転学を視野に、彼に新しい可能性を示した。やるべき課題も明確に示した。しかし彼は、またもやあれこれ言い訳をして、勉強量はみるみる減った。Youtubeでくだらない動画ばかりを見て、SNS上で他人のどうでもいい投稿をチェックして、時間を浪費していた。私が病気の話をしたとき、私は彼に強調した。「命の無駄遣いだけはするな」と。彼が過ごす日常は「命の無駄遣い」に他ならなかった。彼に全てを打ち明け、そう長く生きることができない私を前にして、彼は平然と「命の無駄遣い」をしていた。その行為は、私に対する冒涜以外の何ものでもなかった。

大人気ない。頭の中では分かっていた。けれども、私は彼のことが許せなかった。なぜ、こんな奴の方が私よりも長生きするのか。死ぬべきは、私ではなくて、、、。これ以上は文章にはできない。ともかく、私は彼を許せなくなった。

「堀先生にいい報告ができるように、頑張ります。」
彼は嘘をついた。そして人の命を冒涜した。私の父親も、彼と同じような人間だったのだろう。

「娘さんを幸せにします。」「この子を大切に育てます。」
そして嘘をついた。妻を捨て、子を捨てた。私が虐待されている間も、彼は安全地帯で酒でも飲んだいたのだろう。そうやって「命の無駄遣い」をしているに違いない。

「死にたくない」はずなのに、「死にたい」と思うのはなぜだろう。

ただ確実なのは、いかなる方法でも、私が救われることは無い。
そもそも、救われようとする気が私には無い。

では、どうしてわざわざこうして文章を書くのか。結局、「可哀想な自分」を演じて優しい言葉をかけてもらいたいだけなのではないか。  目の前の別の課題から目を背けようとしているだけでは無いのか。

逃げ場はない。
そしてまた今日も「救われた自分」を演じなければならない。私もこうしてwaste of life。彼らと同じ過ちを犯していく。


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