考えるということ、内なる言葉

コロナ休暇の中、本を読んでいた。

そこで言葉で人を感動させるには、テクニックなどではない。

それは、小手先のことであって本当には感動されない。

ではどうするべきか。

それは内なる言葉を育てるないといけないらしい。

内なる言葉とは、何かを見た時に言葉にはしないが心の内に思ってることだという。

それを認識して、内なる言葉の語彙を増やすことが大切なんだとさ。

じゃあ、実際やるにはどうするのか。と思いやってみた。

これが実際難しいもの。内なる言葉は意外と出てこない。それでも根気強くやってみた。そしたら少しずつ出てくる、出てくる。単語というより自分は文で出てきた。思った言葉は、紙に即書き写す。そして考えるスペースを脳に与えるのだ。そしたらね、自分は承認欲求がとても強いことがわかった。改めてね。

今までしようとしてきたことの大半というより全てが、他人にカッコいいやすごいと思われたいと思っていた。それが自分の根源でありエンジンであったのだ。

見栄っ張りという言葉がお似合いなのかもしれない。

だからこそ、自分を持ってる人間に憧れる。自分が持ってないし、持ってる人がカッコいいから。

俺自身は、他人の目を気にしすぎているのかなと感じる。そのかっこいいってなんの為なのか、はたまた誰の為。それは周りにどう思われるかが先立ってると思う。


だからそんな自分から脱却する。今回書き出してみて自分の内なる言葉は、承認欲求の塊だなと感じる。それが人と話しててもで出るのだと思う

しかし、この気持ちを原動力にするのは悪くないのかもしれない。

何かの動機として、捉えるためには一つの方法であるからだ。

言葉にできるは武器になる。全くその通りである。

もっと自分に向き合い、様々なことを考えていけばやりたいことがいつかはっきりすることがあるのかな。と、密かな他力本願である。



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