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ある災難

私は、長年、英語講師をしていた。私が六十歳の誕生日を迎えようとしていたある日、生徒さんたちが私の誕生日を祝ってくれた。パーティが終わった後、気分は上々で私は買い物のために店に立ち寄った。

いつものようにお寿司のパックをカートに入れながら、そのコーナーの人と二言三言言葉を交わした。そしてお店を一回りした私は清算のためにレジに向かった。

払おうとして己の手のやり場がなかった。つかむべき財布の入ったバッグが消えてなくなっていたのだ。まずはカートの中にあるべき大きなトートバッグを取り出そうとしたがない。じゃあ、財布の入ったショーダ―バッグが肩から下がっているかと右肩を見、手で触ろうとしたが、なかった。

「私のショールダ―バッグ見えますか?確かに肩から下がっていませんよね」

そんなことをレジの人に聞いてしまった。わけのわからないことを聞かれた彼女も困っただろう。誰かがあんな重たいバッグを持って逃げた?財布はショールダ―バッグの中に、ショールダ―バッグはトートバッグの中に、他に仕事関係の書類も全部入っていた。重いバッグだっただろうに、泥棒はそれを全部持って行ってしまったんだ。どう考えてもあの重たいバッグをカートから持ち上げ、担いで逃げていく誰かの姿が思い浮かばなかった。

その災難のすべてを理解するのにどれだけの時間がかかっただろうか。目の前にない、と言うことがどういうことか、私はとっさに分かっていなかった。

その店は、バス道路、大通りに近かった。その大通りを海に向かって横切ると交番がある。私は交番へ走った。

警察のお世話になるのは初めてだった。一気に事情を話した。たいていの被害者は動揺のことをするのだろう。だが、なんと様々に過程があって時間がかかることといったら、何も返ってくる当てもないというのに無駄なことをしているのだろうか。私はそんなことを考えてしまった。

「なかったものとして忘れてしまった方がいい」
「自分の貴重品は絶対に目の届くところに置いていないと」

警察官は淡々と私を諭していた。人のことだと思って簡単に言ってくれるわ。私の本音だった。

海外に旅する時には、あれほどに用心し、お金は衣服に縫い込んだりもしたのに、日本で、しかも、我が家の近所でそんな災難に合うなんて。

私の指紋をたっぷりとられた。私は犯人でも容疑者でもなく被害者なのに指紋が要るのか、と思わずにはおられなかった。そうか、警察というところはできるだけ多くの指紋のストックを集めておきたいのか、などとも考えてしまった。

カード会社に電話をしてカードをストップしてもらわなければならない。そうするために電話代が必要だ。だが、私は文無しだった。警察からそのための費用五百円なりが貸し出された。

そんなもろもろの手続きが済むと、現場検証と言うのか、警察官と一緒に店に戻り、バッグを持っていかれてしまったと思われる場で写真を撮られた。私はちょっとした注目の的だった。私は被害者なのに警察官と一緒にいると、何か勘違いをされているような気がした。

あーあ、わたしゃあ、これで一生悪いことはできないぞ、彼らは私の顔写真も持っているんだから、と思った。

トートバッグがはきれいな青色をしていた。イタリア人デザイナーのものだった。気に入っていた。財布の中には郷里の法事を前に十二万円の現金が入っていた。それに商品券二万円分、購入したての列車の回数券二方向分、それにバスカード。被害はまだまだあった、メガネと玄関の鍵、そのちっぽけなただの小さなカギがどれほどの意味を持つかよーく分かった。

鍵は取られたトートバッグの中、我が家の家の住所も入っていた。カギを新しくするというだけでは気持がおさまらず、新しいドアに替えた。メガネは仕事がらないとお手上げだ。まずは眼科に行き新しく眼鏡を作った。これでトータルどれだけの損失だったのだろうか。

友人に泥棒にあった話をすると、無くした現金は彼女の家の一か月の生活費だ、と言った。我が家だってそうだった。私はその損失分をもう一度ねん出しなければならなかった。大きな痛手だ。

それから一か月ほどたち、そろそろその事件のことは忘れかけていた頃、私の落ち込んだ心も回復しようとしていた頃のことだった。警察から電話が入った。その泥棒が捕まったというものだった。捕まった?さすが日本の警察ではないか、と思った。

隣町のショッピングモールで、ある女性のバッグを持って行こうとしていたところを捕まえられてしまったのだそうな。被害にあいかけた女性は若くて俊敏だったというところが私とは違っていた。六十歳の私とは違い、すぐにその犯罪者のことに気が付き、追いかけて取り押さえたのだそうな。できたら私だってそんな大捕り物をしてみたかった。それにしても、私とそんなに年の違わない六十四歳の女がよくも次から次へと他人のものをとっては捕まらなかったものだわ。

どうせ何も帰っては来ない、と思っていた。私はあてにはしていなかった。が、この泥棒が捕まってから、私は警察の人と再び会うことになってしまった。何も返ってくるはずがないのだから、もう警察の人には煩わされたくなかった。それが本音だった。

分厚いファイルを抱えて二人の警察官がやってきた。あれは調書というものか。その犯罪者がどのようにして捕まったかなどと詳しく話してくれながら、さりげなくその人の写真、名前が私の目に入るようにしていた。そうか、何かの被害者に警察官はもろに犯罪者の名前や顔を見せるのではなく、あくまでもそんな風にさりげなく見せるんだ。私は普通では知ることはないであろう世界を垣間見たような気がした。だが、私はその犯罪者がどんな人物かなどとは知りたくもなかった。ましてやその人の名前など聞きたくもなかった。そんなことを知りえても何にもならないではないか。

そんなことより、私を含め十何人の人たちを苦しめた人物のことで聞いてみたいことがたった一つだけあった。
「この人って何年刑務所に入ることになるんでしょう?」

これって誰もが持つ当たり前の問いではないだろうか。

「初犯だから刑務所には入らない」

初犯て、これだけの人たちが被害にあっているのに。この返事には私はただただ驚くだけだった。

犯罪者の心理は分からない。彼女は泥棒し、持ち去ったバッグ、外側のバッグだけを全部保管していたのだ。結構なコレクションが出来上がっていた。そんなに集めていなかったら、それだけたくさんの被害者がいたということも隠しおおせた可能性もあるだろうに。どうも分からない。

私のバッグも保管されていた。警察の人は確認のためにそれらのすべてのバッグの写真を撮っており見せてくれた。確かにあの美しい青いバッグの写真もあった。そして、そのバッグを私に返すと言ったのである。

「要らないから捨ててください」とお断りした。

そのお断りには、またもや、書類が必要で、その紙の上に再び私の署名、指紋が載った。

これで一件落着、私のその災難は完全に忘れ去ってしまっていいはずだった。だが、後日、警察の人は、またまた、やってきた。

バッグを手渡された。あれほど要らないと言っていたのに私の手元にバッグは返って来た。そう、災難にあった物品の外側だけが。

私は被害者なのにどれだけもろもろのことに時間を割き、指紋をとられたか。私は被害者だって!

訳が分からなくなっている私の眼の先にある、バッグ、それは意味ありげに存在感を放っていた。

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