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『サピエンス全史』に見る贈与の起源

このnoteは、僕の著書『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』に入れられなかった文章や、関連する考察を中心に更新しています。記事を気に入って下さったら、書籍もお読みいただけるととてもうれしく思います。

前回の記事の最後で、僕は「贈与という慣習は人類の生存戦略だった」と書きました。贈与は、生物種としては決して強くない人類が偶然手にした「戦略」だったのです。

ヒトの「早産」が贈与を生んだ

話は、ホモ・サピエンスが直立歩行を始めた瞬間までさかのぼります。

二足歩行を始めたホモ・サピエンスは、2つの難点を抱えていました。「直立歩行に適さない骨格」と「大きな脳」です。

霊長類の骨格はもともと四足歩行に適しており、直立歩行に移行するには骨盤を細める必要がありました。それにともなって女性は産道を狭くするという身体的変化を余儀なくされました。

またこのとき、ホモ・サピエンスは他の哺乳類よりもずっと大きな脳を抱えるようになっている状況でもありました。

つまり人間の赤ちゃんは、大きな脳(頭)を携えながら、狭くなった産道を通って生まれてこなければならなくなったのです。

そんな難題に対して、進化は「赤ちゃんの脳が発達しきって頭回りが大きくなってしまう前に出産する」という道を選択しました。つまり、人間は脳が未熟なまま「早産」という形で生まれてこざるを得なくなったのです。

その結果、母親一人では子育てができなくなり、周囲の大人たちが協力し合って子供を養育しなければ、種として生き延びられなくなったのです。

この進化の仮説は、ベストセラーにもなったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』にも登場しています。

人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。したがって、進化は強い社会的絆を結べる者を優遇した。(『サピエンス全史(上)』、22-23頁)

「贈与」という手段は、僕らが意図的に選び取ったわけではありません。そうではなく、脳の未熟な乳児の出産という「弱さ」を乗り越えるために、進化のプロセスの中で偶然獲得した「社会的能力」だったのです。

早産という「弱さ」が、贈与という人間特有の能力を生み出したのです。

「距離」はコミュニケーションを発生させる

さて、もう一つ、人間に特徴的な生存戦略があります。人間だけが言葉を贈り合う。つまり、言語的コミュニケーションです。

「おはよう」と声を掛けられたら、つい「おはよう」と返してしまう。自分に向けて発せられた言葉を無視することは難しい。受け取ったら思わずお返し、つまり返礼をしてしまいます。

僕らが言語的コミュニケーションに参加する最初の場面を考えてみましょう。

そこでは純粋な贈与が発生しています。周囲の大人たちは、赤ちゃんへ言葉やメッセージを贈与します。それは決して「交換」ではありません。言語を習得していない赤ちゃんからまともなメッセージが返ってくることは期待できませんから。一方的な贈与がそこで手渡されているのです。

そして、このような形でしか、僕らは言語を習得することも、この共同体に参加することもできないのです。「自分の意志に基づいて母語を獲得した」という人は一人もいません。

気がついたら、この言語共同体に招き入れられていたのです。僕らは皆、言葉の贈与によって言語を習得してきたのです。

他の霊長類と違い、人間の乳児だけが「あお向け」に寝ることができる点に、そのような言語的契機があるという説があります。

動物心理学者・松沢哲郎の『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』によれば、赤ちゃんと顔を向かい合わせて、見つめ合い、微笑み合うことができるのは人間だけです。

ニホンザルやチンパンジーの乳児を母親から離してあお向けに寝かせると、すぐにもがいたり寝返りを打ったりして、まったく安定しません。赤ちゃんが終始母親にしがみつこうとするからです(サルやチンパンジーの赤ちゃんが常に母親にぴったりくっついている映像や写真をよく目にしますよね)。人間の赤ちゃんだけが、あお向けの姿勢で安定できるのです。

すると何が起こるか? 母親と子の体が離れているので、母親だけでなく父親や周囲の人たちが赤ちゃんの顔を覗き込めるようになります。

その結果、互いに見つめ合い、微笑み合う機会が飛躍的に増大します。

眼差しに眼差しを返す。
微笑みに微笑みを返す。
自分宛のメッセージを受け取り、それを返す。

そんな贈与のトレーニングとなっているのです。

また、夜泣きをするのも人間の赤ちゃんだけです。チンパンジーは夜泣きをしません。チンパンジーは常に抱っこされているので、そもそも母親を呼ぶ必要がないからです。

人間は母親との身体的「距離」を持っているがゆえに、声を出して泣いて母親を呼ぶしかないのです。そして、距離があるからこそ、母親も自分を呼ぶ声に対して「待ってね。今行くからね」と声で返すわけです。

他者との「距離」があるからこそ、僕らはコミュニケーションをするようになったのです。

いや、その「距離」を埋めるためにコミュニケーションを取らなければならなくなったのです。

そして、その距離を埋めようとしてくれる周囲の大人たちからの一方的な呼び声(calling)という贈与を受け取ることから始まっていたのです。

僕らは話が通じるからコミュニケーションを取るのではありません。

その声が何を示しているのか分からないからコミュニケーションを開始するのです。

弱さを受け止め、他者との距離を埋めるための贈与。

そのようにして、僕らは人間になっていったのです。


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