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トイレットペーパー騒動と「贈与」の話

なぜ僕らは「贈与」について考えるべきなのでしょうか。なぜ、お金で買えないもの、見返りを求めず何かを差し出すという「贈与」が、僕らに必要なのでしょうか。

この問いに答えるために、この記事では最近注目を集めた1つのツイートを題材に、「贈与の構造」を考えてみたいと思います。

しほの@婚活アカ | @shihon029
先程本当にトイレットペーパーが家に無くなり、ドラッグストアで辛うじて最後の1つをGETしたのが私なんだけど、レジで「もうトイレットペーパー無いですよね…」って聞いてる男の人がいたんで、ちょっとまってて下さいって声掛けて会計後2ロールあげた所、お互い独身で連絡先交換するという事案が発生  | 10:34 AM - Mar 1, 2020

ツイート主の女性が薬局でトイレットペーパーを購入したところ、たまたまそれは店にあった最後の1袋でした。そのとき「もうトイレットペーパー無いですよね」と店員に尋ねている男性を見かけます。思わず声をかけ、トイレットペーパーを分けてあげたところ、それが会話のきっかけとなって、連絡先を交換した、という話でした。

なぜ連絡先を交換したかというと、それは男性がトイレットペーパーのお礼をするためだったそうです。

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このように、見返りを求めず何かを手渡したとき、受取人からの「返礼」が後続するものを「贈与」と呼びます。

何かをもらったり、助けてもらったりしたとき、僕らは「お返しをしなければならない」と感じます。「お礼はいりません」と相手が言ったとしても、お礼をしないと、どこか居心地が悪くなります。だから、差出人の意図に関係なく、受取人に返礼をうながすものが贈与なのです。

そして、贈与は「人とのつながり」を発生させます。なぜかというと、返礼には「再返礼」が続くからです。

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AさんとBさんの2人がいるとします。先にAさんがBさんに贈与すると、受け取ったBさんは返礼をします。ですが、もともと、差出人Aは見返りを求めていません。だから、返礼されてしまうと、最初の差出人と受取人の立場が逆になって、Bさんが行う返礼自体が、今度はBさんからAさんへの贈与となってしまうのです。

これは、Aさんが見返りを求めていなかったからこそ発生するのです。

返礼して借りは返したから終わり、とならないのが贈与の特徴です。また向こうから贈与が返礼として戻ってきてしまうのです。

このように、差出人/受取人が入れ替わっていくような行為をうながすのが贈与なのです。

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しかし、見返りを求めず何かを差し出したからといって、受け取ってもらえるとはもちろん限りません(特に恋愛では、そのようなプレゼントの「受け取りの拒否」が起こりえます。あるいは、プレゼントに限らず、たとえばLINEの返信が来ないとか)。

贈与には相手がいます。相手がちゃんと受け取ってくれたとき、その差し出したものが「贈与」となるのです。

先ほどの事例でいえば、もし仮に男性側がトイレットペーパーを受け取ることを断ったとすれば、それはそこで立ち上がるはずだった「つながり」や「関係性」の拒否を表しています。

これは「贈与の失敗」です。だから贈与は、受取人が現れたとき、はじめて贈与となるのです。

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ここまでで述べてきた贈与概念のポイントを2つまとめましょう。

・贈与は、返礼をしなければと感じる受取人が現れて贈与となる。
・贈与は、見返りを求めないからこそ差出人と受取人の間につながりを生み出す。

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さて、もう1点、贈与について確認しておくべきことがあります。そして、これが『世界は贈与でできている』の中で取り出した「贈与の原理」にかかわるものとなります。

そもそも、なぜその女性はトイレットペーパーを贈与しようとしたのでしょうか。つまり、なぜ見返りを求めずに手渡すことができたのか、という問いです。

ヒントは「手にしたトイレットペーパーが最後の1袋だった」という点にあります。最後の1袋を偶然にも手に入れてしまったという「居心地の悪さ」「申し訳なさ」がそこにあったはずです(哲学や文化人類学では、これらを「負い目」「負債」あるいは「借り」と呼びます)。

偶然性によるそんな後ろめたさにつき動かされて、男性に声をかけたと解釈するのが自然です。

現代の日本で生活する僕らにとって、見ず知らずの人にいきなり声をかけ、自分が買ったトイレットペーパーを差し出すというのは、なかなか勇気のいる行為です。普段の文脈であれば、まずそんなことはしないでしょう。わざわざ贈与しなくても、男性が自分で買えばいいだけですから。

「生活必需品であるトイレットペーパーが手に入りにくい」という文脈が、最後の1個を手に入れたことの偶然性を立ち現れさせ、その負い目や後ろめたさに衝き動かされて、女性は声をかけた。そう解釈できます。

だから、贈与は「私は根拠なく、不当にこれを受け取ってしまった」と宣言する主体から始まります。

偶然手にしてしまったもの、不当に手に入れたと感じるものを独占するわけにはいかない。だから、僕らはシェアという形の贈与を行うのです。

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これは災害時にボランティアにかけつけたり、救援物資を送ったり、あるいは寄付をしたりする心証と同じです。災害という日常の裂け目が露わになったとき、たまたま被災地ではない場所に暮らす僕らが平穏を享受できていることへの後ろめたさから、自らの持っている何かをシェアするのです。だからこそ、見返りを求めないのです。

トイレットペーパーの受取人の男性の目には、いきなり贈与を手渡されたように見えます。しかし、実はその贈与には前史(プレヒストリー)があるのです。

つまり、贈与の差出人も、もともとは「受取人」なのです。単に「たまたま先に受け取っていた」だけなのです。

これに気づいた人が贈与を起動させます。

先に受け取っていた偶然の贈与を、それを受け取ることのできなかった人へとパスする。

これが贈与の最初のきっかけなのです。

贈与とは、「私は不当にこれを受け取ってしまった」と気づいた主体が、それを誰かにパスすることから始まる。これが贈与の構造の3点目となります。

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さて、最初の問いは、なぜ贈与について考えるべきなのか、というものでした。

ここでは、ひとまず、贈与が人とのつながりを生み出すから、と答えることができます。そしてまた、贈与という概念装置によって、他者とのつながりの総体であるこの社会を分析し、社会を結び直すという目的のためでもある、と言えます。

では、僕らはなぜ、人とのつながりを生み出す「贈与」という慣習を身につけたのか。元をただせば、僕ら人類の生存戦略でした。

次回は、そのあたりについて書いてみますね。


(本稿のトイレットペーパーの贈与については、経営学者・宇田川元一さんとの下記の対談でも少し触れています。NewsPicksの有料会員限定記事のようですが、ご興味のある方はお読みいただけたらうれしく思います。)


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