始まりのない理念
本屋に行くことも、本を買うことも好きだ。私はいまだに、電子書籍にうまく馴染めていないし、これからもきっと、紙の本をペラペラと巡り続けるのだと思う。
ただ、私は気に入った1冊を何度も繰り返し読むタイプなので、買っただけで読まれていない本が延々と積み上がっていく。私の読書は極めて保守的なのだ。
思うところがあって、ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉遊戯』(渡辺勝訳)を読み返し始めた。もう何度読んだことだろう。高橋健二訳の『ガラス玉演戯』と合わせたら、少なくとも5回は読んでいるはず(以下「ガラス玉遊戯」で統一)。
ガラス玉遊戯名人となるべくして生まれたヨーゼフ・クネヒトの一生を綴ったこの作品、とても長いが読むたびにみずみずしい感動がもたらされる。特にお気に入りのシーンは、死にゆく音楽名人にクネヒトが会うところだ。
ところで、「ガラス玉遊戯」とはなんであろうか?本書にはこのような記述がある。
数学と音楽がガラス玉遊戯には重要な要素であるそうだが、物語の中でそれは学問とも芸術とも異なるものとして描かれている。どこか宗教的な雰囲気も漂わせながらも、それともまた違う。
つまりは、読者はガラス玉遊戯が実際のところどういうものなのかよくわからないままに読み進めることになる。複数回読んだ私でさえ、全く理解できていない。途中瞑想が出てきたり、ラジオを通して遠隔で遊戯に参加することができたり、言語学も絡んできたり、と、とにかく不思議な世界観なのだ。
ヘッセはその到底言葉では表現し得ないガラス玉遊戯というものを、便宜的に説明することを放棄し、わかり得ないものをわかり得ない状態のまま我々の前へと差し出している。ただし、ヨーゼフ・クネヒトの生涯を通して、その「精神」だけはぼんやりとわかるようになっているのだ。
今回再読していて、私はこの、わかり得ないものをそのまま提示する姿勢にハッとさせられた。それはきっと、昨今のありとあらゆるものをわかりやすく咀嚼しようとするあり方に常々疑問を持っているからだろう。香水の世界においても、わかりやすい香りや、わかりやすいコンセプトが跋扈する中で、çanomaは「わかりにくいものをわかりにくいままで」提案したいと思う。それはわかりやすくする過程の中で失われるものの中に、本来失われるべきではないものがたくさんあると考えているからだ。
この「始まりがない理念」というのは、ある種の普遍性だと私は思う。ガラス玉遊戯の普遍的な精神というのは常に存在していて、それがあるきっかけで結晶化することで具体的な「ガラス玉遊戯」となるのだろう。これもクリエーションには重要な考え方であるはずだ。「本来始まりがな」い普遍的なよさを追求することこそが、クリエーションの価値であるのだから。
普段私がブランドについて考えていたことが、思いがけず『ガラス玉遊戯』の冒頭部分に記述されていたのは、この物語に通底している思想が、何度も読み返すことで知らぬ間に染み付いていたからだろうか。
あるいは、そういう思考をするからこそ、この物語に惹かれたのだろうか。それがどちらかなのかはわからない。わからないが、再読し始めたばかりの『ガラス玉遊戯』が、今回もまったく違った印象を与えてくれることは確かだろう。
これだから再読はやめられない。
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