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いかめしは少女を救う

曇天の日曜朝、私は時差ボケの重い頭と共に8時半になんとなく起きた。

もっと早い時間に目は覚めていたものの、身体はまだ眠ったままだった。そこからまた睡眠に沈んだり、ふとしたところで浮上したり、を繰り返しながら、最終的に“あきらめた”のが8時半だったわけだ。

前の晩は夜中の1時に就寝したから、睡眠自体はしっかり取れているはずだが、やはり7時間の時差と13時間ちょっとのフライトは身体のあちこちを狂わすのだろう。本当であれば惰性に任せ布団の中に居続けたかった。

ただその日は起きなければならない理由があった。代々木公園で開催されている「北海道フェア」にて阿部商店の「いかめし」を買いに行かなければならなかったのだ。その日は午後はずっと予定が入っていたので、行くなら朝しかなかった。


「買いに行かなければならなかった」とはいうものの、それはもちろん義務ではなかった。ただ私は、いかめしを食べるチャンスがあるのであればそれを積極的に活用したいと常に思うし、その上友人が店頭に立っているのであれば尚更だ。その日は午後からずっと予定があり、どうしても午前中に行かなければならなかったということだけが、私にとっての小さな不幸だったが。

ただし、その小さな不幸が、のちにある人の大きな幸運とつながることとなる…


代々木公園の「北海道フェア」までは代々木公園を突っ切るルートで徒歩20分。時差ボケ治療も兼ねてランニングで行こうかとも思ったが、美人な友人の前に汗だくで現れるのもいかがなものかと思い直して、綺麗めなシャツに綺麗めなパンツ、足元だけはスニーカーで伺うことにした。

代々木公園では多くの人がランニングに励んでいた。パリ滞在の2週間ちょっと、全く運動をしなかった私はどこかバツの悪さを抱えながら彼ら彼女らの足音を聞いていた。


開場したばかりの「北海道フェア」だったがすでに多くの人で賑わっていた。軽く友人に挨拶をし、阿部商店の「いかめしコロッケ」を右手に、「いかめし」1折を左手に、私はそそくさとその場を立ち去った。

行きと同じルートで帰ると、またランナーたちの足音を聞かされる羽目になる。その朝の私にとって、それは避けるべきことだった。よって私は、富ヶ谷一丁目の交差点から代々木公園駅方面に向かうルートを帰路に選んだ。


交差点を右に曲がり、左手の「いかめし」を片手にぼんやりと、私は「友人にはもっとちゃんと挨拶をするべきだったのか」などと考えていた(その頃には右手の「いかめしコロッケ」は跡形もなく消えていた)。

短時間でパッと挨拶をすることに苦手意識がある。あまり時間を取るのもダメだし、かといって瞬時に気の利いた一言を放てる瞬発力もない。もごもごと口篭って気づいたらタイムアップになっていることがしばしば。その日も彼女はきっと忙しいだろうと思い、早めに切り上げたのだが、なんだか失礼な印象を与えたのではないか…などと答えのない問いの霧の中で私はぼんやりと考え続けていた。


その時、前方20メートルほどのところ、よく知っているシルエットがあることに気づいた。そしてその前方20メートルのシルエットも、私のシルエットが私であることに気づいたようだった。

少し歳下の友人にばったりと鉢合わせた。彼女はマッチングアプリで出会った男性との2回目のデートの待ち合わせ中だった。


「5頭の馬がいるの。で、そのうちの2頭が知り合いだったの。その2頭のうちの1頭」

翻訳すると、目下5人の男性とデートをしていて、今日会う男性の知り合いが残りの4人の中にいることが発覚した、ということだ。

2回目のデートだから今日の1頭はまだ1コーナーに差し掛かったところくらい、とか、私は私できっと同じく5頭くらい参加するレースの出走馬だとか、よくわからないことを話す彼女を前に、私はとあることがずっと気になっていた。


彼女の鼻の右の穴から、黒くて細い何かが、こんにちは!していた。


今日の彼女は水色の薄手ニットに、そのニットよりも少し濃い色のタイトデニム、足元だけは綺麗めヒールと、30歳のダービーレース出走馬としてはかなりの高得点コーデだった。季節感、年齢、綺麗さ、抜け感、それらを数々のレースを通して培ってきた勝負勘で絶妙なバランスの上に構築していたのだ。

これぞ、サラブレッド。

だからこそ、その、こんにちは!をどうにかしてあげなければならなかった。サラブレッドに、そのこんにちは!はあってはならないものだった。


そうか、私はこのために早起きをして、「いかめし」を買いに行ったのか…!今こそ、少女を救わんとす…!


そろそろ待ち合わせ時刻になる、という時、私は軽く抱き合うような仕草で彼女に近づき、耳元でそっと、囁いた。


「鼻毛、出てるよ」


サラブレッドは驚きながらも大爆笑で、こんにちは!を出走前にきちんと処理することを約束し、コンビニへと勇んだ。


パドックを外から眺めていた私と「いかめし」は、サラブレッドが勝負へと向かう後ろ姿に、いつまでも手を振っていた、とさ。


めでたし、めでたし。


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